~辞すれば「ただの人」?~
十分に意識していましたので衝撃を受けるほどの痛手はありませんでした。
しかし、自らは殆ど気付かなくても周りの人たちには完璧なほどに職業病が感知されていたような痕跡が今となって(辞して7年経過)分かってきました。恥ずかしいという思いより、これこそが現実なのでしょうね。つまり、「元・校長先生」という人物には、「~らしいですよ、~した方が良いですよ」等の忠言や情報の提供はは殆ど耳に届いて来ないのです。伝えたり教えてあげること自体が失礼や非礼に価すると周囲の皆さんには気遣いが先行する、ってことなんでしょうね。
今春退職される校長先生や、あと1年の在職期間のある校長先生方から、今年も多くの年賀状が届いています。個人情報が文面や筆跡(字体)からでないと判断できない年賀状に絞って登載しましたが、長年のご勤務を吐露する味のある年賀状がとても多く、見入ってしまいました。その都度、親愛の情を込めて囁くのです。
「長い間のご苦労に心からお疲れ様と申し上げましょう。でもね、校長先生。この呼び名に慣れてしまっていると退職してしまえば・・・・」側近の同業者もいなくなり、「単なるただの人」になっちゃいますよ。時として、自分だけが社会から取り残されてしまったような孤立感を覚えますよ。・・・・と。
小生もそうでした。「そんなことないよ」と力んでみても現実の社会は、慣れ親しんだ「組織社会」とは温度差も空気もまったく違うんですよ。大学を卒業して以来、「教育一筋」の道を歩んできたからこそ、一般社会の常識の尺度と大きなズレがあることに気付かないんですよ。
だからと言って、決してイヤなことばかりではありません。趣味の世界や異業種の方達との接触が出来れば、また違った素晴らしい世界に没入することもあるでしょう。
新しい世界に飛び込んで、新しい人生を切り拓いて余生を生き生きと満喫されることを祈っています。また、小生如き人間もお忘れ無く音信を交換させてください。責任感のみ(笑)、で生きてこられた方ほど、「無・責任」の世界で自身とだけ歩めると安心した時点で心に空洞が出来てしまうそうです。健康管理には十分お気をつけていただいて、心身共に健康でいていただいて、年に数回はお会いしましょう。後1年残っている校長先生は、力まずに身の丈で、今の「孤軍奮闘」を無理なくお続けになってください。素敵な年賀状を有難うございました。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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