~『春の嵐』と「孫台風」がガチンコ!~
楽しみにしてやって来た(長女の)孫たちが帰って行く日。
日本列島を吹き荒れる『春の嵐』様が、ここ土浦へもお立ち寄りになった日。台風銀座で育った小生は亡き祖母が、立ち往生して動かず被害だけが重なる台風の傘下で発した言葉を思い出す。「お茶菓子でも足りんのか?台風様は中々去らないね」と母に向かって発した言葉だった。意味などわからなかったが、春の嵐が吹き荒れる日中、雨戸を閉めてじっとしている様があの日の祖母の言葉に何とも言えない親近感を抱いたのである。自然界への畏敬の念を学んだ思い出である。
当初の予定では、長男一家(長男夫婦が公休を取って)で車に乗せて他の娯楽施設でも巡りながら長女宅に向かうことになっていたようだ。当然ながら娯楽施設も我々老夫婦も同行させる予定と聞いて、4月1日のナゴヤドーム往復から翌日の孫を迎えに移動した電車の旅の疲がピークに達している爺としては「拒否反応」が自然体であった。その意向を踏んで変更先が市内のシアターでの「春の子ども映画」鑑賞になった。そこも爺はパスする。映画を見て千葉の孫たちを土浦駅まで送るので、(土浦駅で合流して)、電車で千葉まで連れて行く、と変更された。
約束の時間に合わせて土浦駅まで向かおうと最寄駅まで徒歩で到着。
春の嵐はJR常磐線を麻痺させていた。小さな駅の構内には人っ子一人いない。「復旧の見通しは無い」との駅職員の対応に爺婆は立ち竦む。婆が映画鑑賞を終えて土浦駅に向かっている車に向けて電話する。自宅に戻って来るとの反応を受けて待機する。嫁と(土浦の)孫たちを下ろして爺婆が乗り込んで、千葉に向けて出発した。1キロも走らない車内に携帯電話が鳴る。千葉の長女からである。業務の関係で、千葉から水戸市に向かう車の中からと言う。
水戸で営業が終わった帰途、土浦に立ち寄って連れて帰るから・・・、と。
急遽、自宅に引き返す。いとこ達が帰るのが不満だった土浦の孫たちは「戻って来たいとこ達」と合流して元気復活。そして、延々と8時過ぎまで「遊び飽きる」ことも無く遊んで、夕食と入浴を済ませて千葉の孫たちや両親と帰って行った。
ホッとした時間。爺と婆は放心状態。
二転三転は孫たちのこれからの人生そのもの。人生を二転も三転もさせる要因は「ひと」だけでないようだ。ここにも「自然界」との絡みがあることを幼い孫たちは知るわけがない。ちっぽけな「春休みの思い出」としても記憶にも残らないだろうが、親は「語り」を通して教えていかねばならない。こんなちっぽけな出来事の積み上げが子育てだと意識してもらいたいモノである。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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