2012/04/02

走馬灯には30歳代の「私」

 ~身体は確かに記憶している~
 「教え子」と言っても今日の主人公は(現在)46才だろうか?
 小生が36歳の頃の中学3年生だった主人公たちは今や、社会の屋台骨として活躍しているようだ。特別窓口でチケット(入場券)を受け取ってはしゃぐ孫二人。同行した長男(当時の小生の年齢)が、「転売等禁止」という活字に注目しながら息子二人に何やら話しかけていた。何回もその恩恵を受けている小生は、一度もその字句に注目したことが無かったので感度の鈍さを感じてしまった。
 同席したのは、同じ時代のチームメートである。奥様とお嬢様の同伴で観戦することになった。ナゴヤドームの中央で躍動するチームメートを凝視する彼は、中学生の時代に「選手を断念させられて」、ベンチの隣席に座らせられてスコアブックに情報を書き込む業務を強制させられた中学生であった。彼も小学生時代から所属したチームの主将を務めさせられたほどの有望な部員の一人であったことは今でも忘れたことは無い。選手生命を断つ宣告をした指導者・張本人には責任がある。中学校を卒業する時点で、部員には数多くの高校から勧誘の言葉が届いている。しかし、スコアブックのプロ(当時は稀有)部員には声など掛かるわけがない。そこで、責任を感じた小生は彼の「第一志望高校」を探り出して、選手以上に厳しい難関であった第一志望校の合格青写真を創り上げ、また、彼にそれを強いた。
 結果だけが人生ではない。とは言うモノの彼だけには第一志望校への合格証を受け取らせたかった。提示した青写真を悉く踏破していく涙ぐましい程の彼の努力を垣間見るにつけ、「もし、失敗したら?」と不安が過った。信じられることが「こんなにも恐ろしい」ことだとは、この年代の中学生たちに学んだ。
 彼の努力で見事に難関を突破して、高校~大学と人生を広げつつも片時も中学時代の「部活動仲間」のことを忘れることなく彼の人生のスコアブックは現在も健在であるのが至福である。
 プロ野球選手最年長者となる中学時代のチームメートを激励するために茅ヶ崎市から車で馳せ参じたようだ。30年もの年月が流れても交わす友情はホンモノだろうと確信できる。次世代への橋渡しをすべき教員稼業従事者としては充足感そのものである。
 マウンドで未だ活躍する教え子。それを見詰めるチームメート。ひっきりなしに携帯電話で連絡し合っている相手もあの時代の同級生なのだろう。どの卒業生をとってもこの稼業でしか得られない「至宝」に間違いない。幸せな時間をナゴヤドーム過ごさせて貰って帰路の新幹線の車中にマウンドで躍動した選手からお礼のメールが着信した。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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