2012/04/04

祖父ちゃんの『創り話』

~子ども時代に聞いた話の再話~
 分校で入学した小生は3年生から本校(=約5キロ)に通うことになった。4年間の小学校生活の中でキラキラ輝く瞬間の光景は70歳を前にしても明確に思い出されるのが不思議な程である。
 学校に校長先生がいることは知っていたが、教頭先生と言う存在は知らなかった。しかし、今となると校長先生の記憶は殆ど記憶には無い。教頭先生の氏名は覚えてはいないが愛称(=子供たちの間での呼び名)はしっかりと記憶している。『ひこいち先生』と呼び合っていた。ひこいち先生は、担任の先生が出張だったりお休みだったりすると教室にやって来た。担任の先生から与えられた課題を確認すると、必ず次の言葉を発した。「みんなが終わったら、楽しいお話をしてあげる」と。「お話」を聞きたい子どもは課題を懸命に仕上げた。「みんなが・・・」と言葉を理解したのか、「聞き合い・助け合って」皆が30分もすると終えた。「教頭先生、みんなが出来ました」と級長であった小生が立ちあがって伝えた光景も覚えている。
 おもむろに本を広げながら、「ひこいっちゃん(=「彦一」ちゃんの地方弁)がな、球磨川の橋のところまでやって来るとな・・・・」と話が始まります。全国的にも有名な『とんちの彦一』話の始まりだった。彦一は、わが故郷・熊本県八代市に伝わる民話の主人公として誰もが知っている有名人である。教頭先生の彦一話は、民話独特の「方言」で展開され、熟睡してしまう級友が何人もいたほど心の奥までしみとおる話として子どもたちにとっては大好きな「夢の世界」となっていた。
 孫たちが少々成長して、親から離れて祖父ちゃん・祖母ちゃんの家に「お泊り」にくるようになった。大好きな祖父母であっても「お母さん」の声が聞こえない夜を迎えるのは心寂しく、帰りたくなってしまう。最初の夜、寝付けないお姉ちゃんが声を殺して泣いていた。祖父ちゃんも祖母ちゃんも思案した。
 ふと、熟睡してしまった級友を思い出した祖父ちゃんは、孫娘を抱きしめながら、「お祖父ちゃんの生まれたところにね、大きな川があってさ。そこには河童がたくさん住んでいたんだって。その河童と一番のお友達が「ひこいち」って言う男の人だったんだって。ある朝、ひこいちが洗濯しようと思って球磨川まで行くと、いつも居る河童が居ないから、おかしいなぁと思ったが洗濯を始めたんだってさ・・・」
 記憶は素晴らしい。教頭先生(『ひこいち』先生)のお話が淀むことなく口をついて出てきた。記憶を紐解く快感に酔いながら話を続けていて、ふと、抱きしめていた孫から寝息が聞こえるのに気付いた。ホッとして祖父ちゃんも眠ってしまった。翌朝、再話をする孫に仰天しつつも昔話の威力を痛感したモノだった。
 そんな日々が遠くなった。その孫は小学5年生になった。
 二泊目の夜も、1年生になる下の孫と一緒に布団に入ると同時に、「今夜はどんな河童のお話でしょうね」と、弟に声を掛けている。師匠(=「ひこいち」先生ご本人は既に故人?)譲りの語りかけが孫たちに伝わり始めているのに妙な気分になる。孫たちは、「ひこいち」ではなく「祖父ちゃんの河童話し」としていつの間にか定着している。回数を重ねるごとに「違う」話材にするのは苦労だ。しかし、創作する愉しみもある。祖父ちゃんの『創り話』もそろそろネタが尽きそうだが、孫たちもそろそろ一緒に寝ることもなくなる日が近づくだろうから何とかなりそうだ。
 明後日は下の孫の入学式らしい。だから、今日は父母の元にに戻って行くと言う。すっかり成長した孫たちと(母屋の孫と加えて)狂騒の時間も終業式である。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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