今日のちっちゃな新聞記事。
拡大してスキャナしているので見づらいかも知れない。文字を大きくして提示したかったのでご勘弁いただきたい。短い記事なのでインターネットで「関連記事」を詳しく読んだ。二葉百合子さんの熱烈なファンではない(決してイヤな歌手でもない)。ただ、歌手としての「年齢と声量」、つまり声量の維持とそのための訓練手法に日頃から大きな興味があった。掲載記事に表現されていない内容は以下の通り。
夫である木村忠氏談: 「ちょっと二葉の歌、おかしいんじゃないか」と言われてからの引退は嫌だ」と言ってしまして、私も共感したのです。
二葉百合子さんご本人の談:「自分としては、半分決心したものの、まだ半分はみなさんに後2~3年は聴いてくだされればという気持ちもありますが、自分で決めたので」とキッパリ。
『潮時』という、小生の好きな古い日本語表現がある。
第一線から退く時に用いる一つの表現法だと認知している。「もうお辞めになったっらいかがでしょうか」と囁かれてから潔く退くことも『潮時』を理解した事になるのだろう。しかし、二葉さんのように「自分で決めました」と語られる引き際の表現に何となく心引かれてしまうのは小生だけだろうか。現役としての活動ぶりに触れて異変を周囲が感じるようになってから「自らに言い聞かせる」事への自己嫌悪感に妙に共感をするのである。
小生は公務員だったので「定年退職」という際限があり、関わった学校教育を辞する『潮時』など考えることもなかった。知人に言われたことがある。「いいなサラリーマンは。定年退職があるからな」と。定年退職のない仕事に従事していると、その『潮時』を自分で決めるのが難しいと知人は付け加えた。一理ある。しかし、サラリーマンにも言い分はある。「まだ十分に働けるのに定年ですから」と職場から放り出されてしまう。辞めるという『潮時』を実感しないままに業務停止となるのは不本意である。これも一理ある。
とっくに辞めてしまって、『潮時』にも言及することもなかった能天気な小生。後輩諸兄はこの所見を如何お受け止めいただくのだろうか?
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