~どこかにある!筈~
「俺の人生、半分はモノ探しで過ぎちゃってるよ」と、友人がある時発した言葉を思い出しました。周囲で聞いた同僚が一斉に噴き出すほどの笑いに繋がった光景が浮かんできました。他人事ではない。そんな一日の経験はありませんか?
人の名前が出てこない。さっきまで使っていたモノが見当たらない。持って移動してどこに置いたか見当がつかない。あれっ、また同じものを買ってきちゃった。そんな人生を直接体験として実感するようになるのは何歳ぐらいからでしょうかね?
探し物でミニ書斎が足の踏み場が無い程に散財しました。
夕暮れ時になって小学生の孫たちが「勉強しに」やって来ました。妻が、「今日はお祖父ちゃんの部屋では無理よ」と窘めている声が聞こえました。孫たちにまで迷惑かけちゃいました。老人性うつ病にでも罹ったかのように落ち込んでしまいそうになります(実際はなりませんが・・・)。
ところで笑い話の笑い話を吐露します。
探し物が何だったかさえ忘れてしまうこともあります。救いようが無いでしょう。ホントに笑っちゃいますね。そんな経験までは無いでしょうね?
結局発見できず、また束ねて元の鞘に戻してしまいました。孫たちは宿題を終えたらしく母屋に帰って行った後、妻が入って来て言いました。「探し物をすると片付くでしょう?」と。夫は答えに窮しました。なぜならば、ひっくり返した産物はそっくりそのまま元の場所に戻していたからです。大山鳴動してネズミ一匹も出ぬ状況で「終日の悩み」(=モノ探し)の解消は成立しなかったわけです。気分がスッキリしませんが、これも日常的行動になれば気にもなりません(笑)。
茅ヶ崎の知人から電話がありました。
「今日は雪が降っています」と。この冬一番の冷え込みをラジオが伝えます。冷え込んで来ると脳も悴んで「健忘症」も悪化するだろうな、と自分に言い聞かせをするボヤキ節もホンモノになっちゃいました。当ブログの愛読者の年齢層は?いやいや、そこまでの追及は止しましょう。ブログ作成者を安心させるような仄々とする体験談等をお寄せくださいませ。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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