2012/01/09

『成人の日』に思う

 ~私の「二十歳(はたち)」の頃~
 18歳で上京して次兄と4畳半一間のアパートに住んだ。大学1年生は19歳になる。翌年(昭和39年・1964年)の誕生日を迎えると、目出度く「オトナの仲間入り」を意識する二十歳になる。兄が安い給料を叩いて、弟のお気に入りの紺色の背広上下を作ってくれた。袖を通して足を入れて鏡の前に立った弟に兄が、「どうだ、気に入ったか?」と言った。生意気な弟はお礼の言葉も発せずに、ただ一言「うん」と返しただけだった。成人式に着せてあげるための兄の「親心」だったにも関わらず殆ど感謝の念も無く過ごしていたことを、今になって悔いつつ感謝している。
 私の二十歳の頃。
 1958年に東京タワー(当時の写真)も完成して、1964年の東京オリンピック開催予定で日本列島が敗戦後のどん底から這い上がる絶好機として一丸となって経済成長に加担し始めた頃と言えるのだろうか。
 オトナになった!そんな自覚や自信も無く4年間の大学生生活を自活することだけを考えて、アルバイトに明け暮れた霧中の人生だったと振り返る。兄に贈られた背広(当時はスーツとは言わなかった)を着て、神奈川県高座郡寒川町の庁舎で成人式を受けさせていただいた。会場には馴染の顔も無く故郷での成人式に集う悪友たちを思い浮かべながらの寂しい成人式であった。その夜、アパートの一室で兄が買って来てお酒を呑ませてくれた。味など覚えていない。セピア色にして浮かんでくるアパートの一室が懐かしい。
 当時は、故郷との通信は「手紙」しか手段は無い時代だった。
 母親も大勢いる子どもの成人式を晴れがましく祝う風潮に酔う人生など送っていない。成人おめでとう、なる文言が届いた(手紙等で)記憶は無い。父を戦争で盗られ末っ子の小生が「二十歳」まで育った事実だけで母親は満足だったのだろう。そんな戦後20年の頃が成人式の時節だったのだ。
 新幹線の開業(当時の車両写真)で東京~名古屋~大阪は活気づいた?家庭経済には三種の神器(3C=カラーテレビ・カー・クーラー)なる合言葉が飛び交ったが『無縁』の生活で明け暮れた。同時に「消費は美徳」という言葉も飛び出して、「使い捨て時代」の幕開けでもあったのかもしれない。使い捨てられた「ごみ」が、その後の我が国に「大問題」として降りかかることを想定したとしても「経済上昇」が優先された時節でもあった。こんなちっぽけな記憶を弄るだけでも、現況が昨日今日出来上がった訳ではないことがわかる。国家の歴史責任は全ての国民にあることを実感する。
50年ばかり前に体験した成人式のあの時代があって、今日の成人の日がある。その歴史観は十分に理解できる。しかし、老輩者の単純なノスタルジーとお笑いいただきたいが、小生には大きなボヤキがある。
成人の日、と「日」を限定するのも「第〇月曜日」という指定ではなく、1月15日(で、なくても良いが)という「日」を特定して、「連休にする」目的を優先させる浮動票紛いの不安定な制定は止めて欲しかった!と。
 そろそろ、「成人の日」の太陽が、新成人への期待を孕んで昇ってくる。さあ、国旗を揚げて122万人の新成人を祝うことにするか!!!

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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