~お粥の威力~
昨日の夕食。嫁と半分ずつに分けたという食材が『七草粥』に変じた。子どもの頃お粥を食べさせられた苦い思い出は「病気」の時だった。元気のない身体には美味しいとの味覚は無かった。噛まずに呑みこむのは苦渋の時間だった。慣習では朝食に摂るという七草粥であるが、今年は我が家では夕食となった。
齢を重ねるごとに実感するのが、日本食のお粥である。取り分け、お正月気分が消えかかるこの時期のこのお粥が美味に変わり始めたと実感するのが加齢の証しか。祖母が詠み唄のように発した以下の(歌)詞が、60年経った今でも諳んじていることが不思議に思えるほどでもある。
昨日の夕食。嫁と半分ずつに分けたという食材が『七草粥』に変じた。子どもの頃お粥を食べさせられた苦い思い出は「病気」の時だった。元気のない身体には美味しいとの味覚は無かった。噛まずに呑みこむのは苦渋の時間だった。慣習では朝食に摂るという七草粥であるが、今年は我が家では夕食となった。
齢を重ねるごとに実感するのが、日本食のお粥である。取り分け、お正月気分が消えかかるこの時期のこのお粥が美味に変わり始めたと実感するのが加齢の証しか。祖母が詠み唄のように発した以下の(歌)詞が、60年経った今でも諳んじていることが不思議に思えるほどでもある。
せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ
意味も分からず実物との照合等もせずに記憶する、昔の人はこのことを「諳んじる」と表現した。祖母からの教えは多くはこの形でインプットされている。今でも、この七草の実物も得体の知れない植物のままに胃袋に入ってしまう。七草粥の食材はスーパーの食料品売り場にはセットで販売している時代になっている。
ともあれ、お正月と言う特別な食生活が、このような料理で胃の調整を図っていることを考えると『医者要らず』療法の知恵に感心してしまう。薬と言う現代科学が生んだ遺物に依存してしまう生活に慣れると、自然治癒という流れへの努力は不要となってくる。この食文化は正に自然治癒への誘いなのか。
母屋で食した孫たちが「離れ」にやってくると、老妻が「美味しかった?」と聞いていた。美味ではないだろうが、母親が作ってくれた料理は美味しかったようだ。「離れ」では、七草粥に舌鼓を打つ老夫妻の姿があったことは事実である。
先人の知恵に感謝する七草粥を食した翌朝である。
ともあれ、お正月と言う特別な食生活が、このような料理で胃の調整を図っていることを考えると『医者要らず』療法の知恵に感心してしまう。薬と言う現代科学が生んだ遺物に依存してしまう生活に慣れると、自然治癒という流れへの努力は不要となってくる。この食文化は正に自然治癒への誘いなのか。
母屋で食した孫たちが「離れ」にやってくると、老妻が「美味しかった?」と聞いていた。美味ではないだろうが、母親が作ってくれた料理は美味しかったようだ。「離れ」では、七草粥に舌鼓を打つ老夫妻の姿があったことは事実である。
先人の知恵に感謝する七草粥を食した翌朝である。
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