~見える反応・見えない反応~
植物とも動物とも「意識的な共生」の実体験は無い。
「小・中・高校生」の反応を意識して授業等を通して「共に生きて」来た、と言えばカッコいいが、そんな素晴らしい人生でもなかった。「見える反応」には一喜一憂しつつ、見過ごしてしまった「見えない反応」には鈍感だった、と今頃反省しても褒められるモノではない。
タネを蒔いて、芽が出た(有反応)ら喜ぶ。枯れた新芽にはその現象に至る無反応にどうしようもない我が無能さを詰る。あっという間に成長する(有反応)には『期待をかける』我儘さが存在する。
話題にした大輪のユリ(=カサブランカ)にも『期待される反応』を期待し続けた。一向に有反応を受け止められない成長ぶりには焦燥感と不安感が募るばかりだった。『期待される反応』とは大輪の花を咲かせてくれることである。授業でも「期待される反応」は興味関心を旺盛にして生き生きと学習する姿勢であった。教師と言う稼業の我儘な貪欲さをしみじみ反省させられている。植栽に接してからである。
モノを言わない。無反応な植物には期待される反応が期待できない。
しかし、静かな反応を成長として見せてくれた大輪が咲いた。しかも、一気に二輪も咲いていた。早朝4時の「期待された反応」を見届けた老夫婦には言葉には表せない。感動以外何もない。「咲いたね」の言葉をリピートし合いながら期待に応えてくれた植物に、思わず口をついて出た言葉が「ありがとう」であった。
この「こころ」は教師によって「期待される反応」が要求される生徒諸君に向かっても「心から叫ぶ」言葉としても通用しそうな気がしてならない。偉そうに言えた先輩でもないが、敢えてこの写真に代わって後輩諸兄にも伝えたくなっている心境をお許し願いたい。同時に、「反応すること」に命がけで頑張ってくれた卒業生諸君に、受け止めることも出来ないままに終わった無能な教師としても、改めて「ありがとう」を言わせてもらいたい朝である。
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