我が家のリビングから撮った「つがいのキジ」です。オスの直ぐ右に薄い茶色の小型のメスが映っています。わかりますか?こんな環境で生活をエンジョイしています(7月18日撮影)
~礼儀の真髄も知らぬままに~
加齢を続けている我が人生で、時として刺激が走る。それは「礼儀」(=常識)として発送される礼状を読んだ瞬間である。
昨日、手元に訪問先(学校)から礼状が届いた。小生の業務内容から用務が終了すると「礼状」が届くことが多い。日本文化の支柱にある「礼儀」という作法がさせる慣習のようである。ホンの例外ではあるが、礼状が届かない場合もある。最近は無礼とも感じなくなった。それは、儀礼的な表現でまとめられ、「誰に送っても」通用するような形式的な文面ばかりであるからだ。礼状が活字になってしまった頃からなのだろうか?
小生は葉書を多く投函する。多くはお礼状である。受け取られた方々の中から「角田先生は達筆なんだから直筆で欲しかった」「どうして手書きにされないんですか」等々の反響も届く。言い訳ではないが「言い分」が1つある。単価50円(葉書)で郵送できる「小紙面」に出来るだけ多くの謝意を記したいだけである。何百枚の葉書を投函しても同じ文面の葉書は僅少である。宛名の「その人」にのみ通じる「ことば」を添えるようにしているからである。ご要望に応えられる程の枚数になったら手書きになりますかな?歯の浮くような文章で綴られた礼状には赤面するどころから腹立たしく思うことが多い。下手な講演でも、拙い指導でも当方は「常に全力投球」する性質である。帰路はその疲れで缶ビール1本で熟睡するほどエネルギーを消耗する(笑)。
久しぶりに「学校現場からの感動」が伝わる礼状をもらった。歯が浮くような礼状を受け取った時点と同様に赤面もするが、素直に反省も産まれる。まさしく「共生」する意識が深まった礼状である。以下にその「礼状」を転記する。
平成24年7月17日 角田 明先生 様 ●●市立◆◆小学校 校長 ▲▲▼▼
お礼状 向暑の候,ますますご繁栄のこととお喜び申し上げます。先日はお忙しい中,本校の校内研修会にてご指導いただき誠にありがとうございました。教師が,子どもと本気で向き合うことで子どもが育ち、学級が変わる。また,授業は,教師と子どもの真剣勝負の場であることを改めて学ぶことができました。教育の原点なのですが,疎かにしがちで,耳の痛い教員もいたことと思います。学級の実態は,担任が一番よく把握しています。その実態に応じた授業を考え,子どもが「分かった」と言ったときの目の輝きを見るのを楽しみに授業研究した自分を思い出しました。それが教師の仕事の醍醐味であり,やりがいだと思います。〇〇教諭や□□教諭は,先生に直接ご指導いただき,ずい分やる気になってきました。目の輝きが変わってきました。また,先週の金曜日に,6年担任が研究授業を行ったのですが,しっかり机間巡視をして指名をしていました。指導主事の先生をお招きした協議会でも,一つ上の話し合いができるようになったと思います。まさに,授業づくりが学校づくりであると確信しました。先生のご指導で,私自身が校長として何をしていくべきかたくさん学ばせていただきました.本当にありがとうございました。ぜひ、また、先生にご指導いただける一日が来ることを楽しみにしながら今後も努力を重ねていく所存です。略式ながら書中にてお礼申し上げるとともに、先生のご健康と一層の御発展を心よりお祈り致します。
小生は10年間の行政生活で7年間は管理職でした。行政では他種との接触があり招請状と礼状は抱き合わせでの事務処理が要求されました。「遅くならないように」とだけを重点に指導を徹底しました。「反省」はそこに発生しています。ご想像できますか?
学校教育関係者の読者のみなさん、この礼状のどの部分に凡庸な小生が「感動と反省」の思いを募らせたのか考えていただけますか?メールにて返信をお待ちしています。
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