2012/07/11

私の母は字が読めなかった!


 ~車内の注意事項も読めない「識字」~
 小学校の授業を視る機会が多い。1年生と6年生の授業の違いは明白である。その基準は使用言語である。使用言語とは単なる言葉だけではない。表現力も想像力を活かすべく絵やイラスト等(文字言語だけではない)の工夫が随所に見受けられて「文字を理解しやすく」なっていて心地よい。
 指示事項の文字が読めるとは?
 意味が理解できるから、その指示事項にも従うことが出来ることになる。読み書きが出来ることを「識字」と言う。識字率99%の我が国は世界21位(第1位はグルジアの100%)にランクされるらしい。ランクの順位の問題ではない。1パーセントの人口が文字の読み書きが出来ないことになるとすれば、電車内の指示を理解できない人はその1%の人なのだろうか(笑)。
 小生は全国の多くの電車に乗る旅人の一人である。
 その旅人には、最近、やけに気になることがある。それはシルバーシートと呼ばれる座席の光景である。設置は定着したものの設置の目的が全く軽視されている行動に直面することが多くなったことである。シルバーシートに堂々と座ることの出来る年齢に達した小生夫婦も時として設置者の配慮の恩恵を受けている(謝)。
 昨日もそうだった。空いている車内なので誰でも座席とすることには異論はない。しかし、堂々と携帯電話を使用する姿があった。最近は、その数が多くなっている。文字は読めなくてもわかるように『絵文字』ステッカー(左)も貼ってある。識字の問題ではないようだ。99%の日本人は文字が読めるということが恥ずかしくもなる。あの場所は敬老席(妊婦等)だけでは無い。電波を発する機器に健康を害される人のためにも顕在する筈の座席である。確認のための『絵文字』ステッカーである。
 去る5日に訪問した広島市の小学校で2年生の授業を観る機会があった。提案授業の第一回目としての公開研究授業は「道徳の授業」だった。愛情の深い担任と信頼し切っている子どもたちの織り成す展開はロールプレイ式が採用され、指名された子供もそれを見守る学級全体の雰囲気も2年生にしては上出来の授業だった。何よりも笑顔の絶えない子どもらしい愛嬌が忘れられない。
 子どもたちの言語能力の成長が著しく表出するのが3年生からである。学力だけに限らず個人差がはっきりするのが4年生である。2年生がその前段の重要なステージであることを考えれば、「楽しい」「面白い」だけの授業準備では3~4年生での成長が心もとない気がする。「お面」を被った瞬間から、子どもはその「役割」になり切った言語を使うことに集中した。そこに言語使用運用能力が培われる。至れり尽くせりの授業の工夫であった。識字率の高さを誇る我が国の現実を実証した授業だった。現状に甘んじることなく「高度な手法」も、この道徳の授業では実験的に取り組むことも期待しながら観察した。
 このような学校教育の努力は「学力」の評価だけに押し潰されていないだろうか。シルバーシートに座るや否や、携帯電話で何かを調べてレポートらしきものを作成している。周囲を気にすることも無く時を過ごして大学のある駅で降りて行った若者の後ろ姿を見送る。「識字率」の深意を疑ってしまう。いや、哀しくなりながら「母ちゃんも字を読んだり書いたりできたい」と呟いた亡母を思い出す。字が読めなかった母がこの光景を見たら何と呟くのだろう。
 もっと気になったのがシルバー(と見受ける)自身が携帯電話をその席で使うことである。文字が読めても意味が無い!!(怒)

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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