~「半夏生」と農作物~
朝9時半に家を出て常磐線に揺られ上野駅経由で秋葉原駅で乗り換える。目的地駅は千駄ヶ谷である。お伴は長男一家(長男と孫3人)で、行き先は神宮球場である。下車駅を千駄ヶ谷駅にしたのは、国立競技場をサッカー少年の息子に紹介したかったらしい。上野駅から地下鉄で一直線の行程を変更したのは孫には大受けのようだった。「ここでサッカーの試合が見てみたい」と呟いたのがそれを証明していた。4歳の孫もお兄ちゃんたちの歩調に負けずに神宮球場まで歩いた。真夏のような陽射しが球場全体に降り注ぎ、ゲーム展開の興奮との相乗効果で全身が火照る思いで試合終了まで付き合ってしまった。疲れました!
そんな翌朝は早起き爺さんも少々朝寝坊。布団に横になったままの耳にラジオから「半夏生」の言葉が何度も入り込んでくる。ふと亡祖母の声を思い出してしまった。半夏生と言う言語への連鎖反応であろうか。半夏生の朝の祖母の姿が蘇る。庭の隅にあった「井戸」に蓋をしてくるように指示された言葉も浮かんでくる。「明、井戸に毒が入るけん(=から)蓋ば(=を)して来んかい(=来なさい)」との指示だった。言われた意味も解らず言われたとおりに「釣井戸」に向かった。備え付けの木の蓋(数枚の板切れ)を隙間が出来ないようにして用を済ませた。
どうしてこの日だけ、「井戸に毒が入るんだろう」と、不思議に思って祖母に聞いた。田植えが終わってしまった後の日の梅雨時期の雨には毒が入っている、と言ったのである。祖母らしい表現で説明をしてくれたのだが、未だに意味不明である(笑)。梅雨時期に成熟する梅の実は、解毒作用の効能があることもその後知ることになるが、「毒」と「雨」と「(農業)作物」の関連を繋ぎながら考えても未だに不明である。
日本人の「生活の知恵」の泉の幅と深さをしみじみと感じる今日の日の朝である。半夏生という名称の植物(写真)をみると毒とは無縁な「清楚な佇まい」を感じるのは小生だけだろうか?
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