2013/05/02

父親としての「家庭訪問」を受けた30年ばかり前の思い出



 「先生、頑張ってぇ~!!」のエールが3階の校舎から幾つも聞こえました。我が子の家庭訪問のために、昼食を済ませて帰って行く小生に声が飛んできました。

 担任教諭の小生が、「父親として」子どもの家庭訪問を受ける日であることを中学生は知っているのです。家庭訪問が近づいてくると英語の授業の中でも自らの苦しい(笑)立場の心情を吐露しました。真剣に聴き入る中学生が愛おしくも思えた光景です。我が子の「家庭訪問」の日は、午後は有給をとりました。

 「えっ、角田先生でも緊張するんですか?」「お父さんとしての角田先生を見てみたい!」「学校での角田先生とは違うんだろうなぁ~」。これらは授業中の反応の声でした。「先生」と「父親」の二役に興味が湧くのも思春期だったのでしょう。翌日の授業では、「どうだった?」の質問も受けました。英語の授業より盛り上がってしまいました(笑)。卒業生との集団での再会(クラス会や同窓会)の席上でも、「親」になった生徒からその当時の光景が述懐されることが多くあり赤面しました。

 同業者(教員)の家庭訪問を受ける心境は穏やかではない(笑)。

 小生は「禊」と心得て対応することを決心して、第一子が小学校に入学して第三子が中学校を卒業するまでの11年間は「父親」としての家庭訪問を全てに対応しました。第三子が中学3年生の担任は新採用2年目の教員でした。小生は市教委の指導主事を務めている立場でしたので、「担任いじめ」だと同僚や旧仲間たちから嘲笑も受けました。担任の先生方も尋常では無かったでしょうが許して戴きたい。

 我が子の授業参観は当然ながら、入学式も卒業式も同業者なるがゆえに「我が子の成長」を直に見ることは不可能でした。小生の家庭訪問への対応は単なる「悪あがき」だったとしか言えませんが、「親」としての小さな選択だったと、迷惑も顧みず懐かしく思い出しています。

 孫たちの小学校の先生方の家庭訪問もまだ続くようです。先生も子どもも親も三位一体で頑張って欲しいと願う「お祖父ちゃん」です。



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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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