小学校5年生の時、祖母が亡くなった。
女系家族(祖父なし・父なし)の男役を演じきって逝った祖母の存在価値を祖母の享年に近くなって(=正式には後9年)、しみじみと謝恩の心境になることがある。1つの記憶が蘇る。
ある日、担任の先生に「明くんは、頭が良いけど三日坊主だから・・・」と指導された。帰宅してから庭先の畑作業をしていた祖母に話した。何気なく返してくれた言葉が、その後の明少年に大きな着想力を与えてくれたことになった。
「三日坊主ば(を)、何回でん(でも)、続くるたい(続ければ)?!」
(=熊本地方・放言 三日坊主を何回でも続けてみれば?!)
『三日坊主』という言語が占める精神的窮屈度は、どんな人でもイヤな思いに追い込まれる程高いモノではないだろうか。祖母は、何気ない表現で孫息子に、自らの言葉で通訳したのである。
担任の先生の指導は、「漢字・100字練習帳」を毎日課されていた。傲慢且つ不条理な課題ではないか!しかし、幼心には「続けられない自らの不甲斐なさ」への反省だけで落ち込んでいたのである。祖母の着想を聴いた5年生の少年の心は晴れたのである。その後も、3~5日は続けるが、一旦途切れてしまう。しかし、少年は落ち込むどころか、「次は6日続けられるかな?」との発想で自らを鼓舞したのである。
結局、祖母の深意のように「三日坊主」で途切れながらでも、継続する魂だけはこの歳になっても変わっていない。三日坊主の自らを責めることも全く無い。同じことを一生かけて「継続する」ことなど不可能ではないか。途切れても、途切れても、落ち込むことも無くまた「次の継続へ」と心を入れ替える。
この歩禅記も、初期のHP管理人に勧められて以来、途切れながらもそろそろ10年間書き続けていることになる。肝腎な『歩禅(=健康管理のための散歩)』が土台にある。その肝腎な歩禅が継続できない日も多い(笑)。それでも歩禅記を書き続けることに負担も抵抗も無い。途切れたら「ごめんなさい!」で済ませる。
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