小生は、昭和19(1944)年10月20日に第六子として誕生。母はまだ28歳だった。
生きていれば100歳直前に至る。77歳でこの世を去った。日没の遅い九州の夕暮れ、自転車で買い物に行った帰りに目の前に飛び出した犬を避けるために転倒したそうだ。頭部を強打したらしく、運び込まれた病院から義姉(長兄の嫁)が電話をくれた。こん睡状態である事を聴き、横浜に住んでいる実姉と連絡し合って、それぞれのリズムで翌朝羽田空港へと急いだ。
自宅に運ばれていた遺体はまだ温もりがあった。
同じ位置に長兄(52歳で他界)の遺体があったことを思い出した。兄の亡骸に向かって「母親らしい」言葉を投げ掛けた。我が息子が親より早く逝くことへの悔しさの表れだった。
「親不孝ってな、一番酷いモノが親より先に死ぬことバイ。この親不孝モンが!」と声を絞った母の言葉は今でも鮮明に心に刻んでいる。
18歳で嫁いできた母は10歳の長兄を頭に6人の子どもを産んだ。昭和20(1945)年4月21日に、出征していた夫(小生の実父)が沖縄で戦死したと言う公報が届いたそうだ。遺骨も無いままに墓標に名を刻んだ、と聴いた。父親のいない我が家の「怖い存在」として君臨していた祖母(父親の母)は小生が5年生の時他界した。その祖母が、良く口にした言葉がある。「あんたらの父ちゃんは、赤紙一枚で呼び出され、白紙一枚で帰って来たと」と。高校を卒業して上京する頃、祖母のその言葉の真意まで理解できた。祖母も息子に先立たれたのである。戦争とは惨いことをするものだと胸が痛み続けた青春時代だった。
28歳で未亡人になってしまい、6人の子どもを独りで育ててくれた母親の苦労がこんな歳にならないとわからない。親孝行したい時には親は無し、とは巧く表現したモノである。中学から高校、そして大学進学まで母親への抵抗と反抗的言動は、いまとなれば懺悔してもし足りない。可愛くない三男坊として、母親には子どもの中で最も苦労をさせてしまったことは事実である。
母の日。
それは小生にとっては、親不孝の懺悔をする日である。
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