2012/03/11

去年の今日・午後2時46分

~『慰霊・鎮魂』の終日~
 「未だ遺体が発見されなくて・・」と涙ぐみ語る遺族の顔がまともに見ることが出来ない。それは幼い頃の我が生活体験からの感情論である。父親が沖縄で戦死したとの公報を受け取った母親は、夫の死を受け入れることが出来るまで何年間(心の中で)待ち続けたのだろうか。某雑誌のインタビューでその後の経緯として母の行動を語ったことが記事になって公表された(月刊誌MOKU2000年5月号)ことを思い出した。ご希望の方にはその時の原文があるのでお分けしましょう。
 今回の震災でも尊い命を亡くした遺児が大勢いるだろうと推察する。
 小生は昭和19年10月に誕生している。終戦は昭和20年8月である。物心がついた頃(と言っても定かではないが)、母の言動が今でもはっきり記憶の中に存在している。誕生した時点で、既に戦地に赴いていた父親は家には居ない。その頃から小生は生まれつきの「母子家庭」生活体制で育ったことになる。
 この東日本大震災でご両親を亡くし、顔も覚えていない「子ども」達がこれからの時代を生き抜く苦労を想像するだけでも(実体験者として)心が痛む。慰霊・鎮魂の光景を画面で直視できない。戦死という犠牲者は男性に限る。多くの父親も戦場で散ったそうだが、前途洋々の青年たちも惜しまれながら消えて逝った。数えきれないほどの「妻と母」は涙にくれた。なぜならば「遺体の確認」が出来ないからである。
 今回は条件が違う。祖父母も叔父叔母(伯父伯母)も、そして父母、兄弟姉妹と犠牲者に男女の違いは全くない。不特定多数の犠牲者にはその遺族がまた夥しい数に及んでいる。現代に生きる我々の記憶には阪神淡路大震災の悲劇は記憶に新しい。「二度と起きて欲しくない大惨事」と表現するも、大自然を相手では人間の力など風前の灯に等しいようだ。
 午前1時からラジオを聞きながら涙して小生の今日の一日が始まった。
 孫たちの生活リズム支援として祖父ちゃんの「車での送迎」がある。後部座席に座る孫に語りかける。難しい話は必要としない。カーラジオから流れる哀しい雰囲気に言及しながら「今の幸せ」を祖父として語りかける。
家族がある事。お父さんやお母さんが元気でいる事。お友達と楽しく遊べる事。孫は今の幸せを感じるままに言葉にして返してくれる。この震災直後(昨年の4月11日)からお祖父ちゃんお祖母ちゃんと同居したことも幸せなことの仲間入りになっているようだ。
黙祷をして「鎮魂・慰霊」の心を捧げる。自らの幸福感を共有し合いながら有限の生命を活かして生きたいモノである。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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