~音楽で知る時代感覚のズレ?~
CDで音楽を流す。
離れの『ミニ・老人ホーム』にはそんな音楽のある風景が似合う。本日の主役CDは「ラジオ深夜便 にっぽんの歌 こころの歌」(NHK・CD)である。「うれしいひなまつり」で始まり、続いて「どこかで春が」。最後が「かあさんの歌」で締めくくられている全10巻中第7巻のお気に入りCDである。こんな音楽が流れる爺婆の部屋に訪れる孫たちには顕著な変化は見えない。
歌は世につれ、世は歌につれ・・・、と言うらしい。3月3日の『桃の節句』という季節の臨場感を醸し出すのに「うた」は必需品であると考える。気まぐれに訪れる母屋の珍客たち向けにはCDは便利なグッズである。止めない限りずっとそのまま流れているからである。ふと、足を止めて聴き入ったり鼻歌にしたり、手足を動かして学芸会張りの演技も見せる孫たちの小さな動きを当方は見逃さない。しかし、明らかに時代感覚のズレはあるが、これは仕方が無い。また、必要なことでもあるとも考えるからである。
時々、「あっ、この歌知ってる!」「保育園で歌ったことがある」と連発することもある。無意識の意識の中で「リズムのある音」として聞き込んでいると、「あれ、この歌いつ覚えたんだっけ?」と自問する学びの風景と出くわすのだと確信している。出来るだけ機会を見つけつつ保有財産(笑)から「音楽CD」を取り出しては流している。いわゆるBGMという手法で自然体で聞かせてやろうと企んでいる。
三世代同居の利点を追究しながら「お祖父ちゃんの目」で確認しつつ、音楽を通して伝統を孫たちに残してあげたいと思うのは老爺心(?)なのだろうなぁ。
義理の母親が義理の娘に「お雛祭り・寿司」と「桜餅」を手渡していた。
嫁いだ娘にはしてやれなくなった古の我が家の「女性としての」しきたりでもあるらしい。母屋で嫁の歓声が上がった。群れる3人の息子たちに略奪されてしまった様子が離れまで聞こえてきた。穏やかな我が家の「桃の節句」であった。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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