餌を目の前にぶら下げて調教されるのは単なる動物である!
「~ができたらゲームをしても良い」「成績が上がったら~を買ってあげる」等の交換条件付きの育児法には限界がある。同様に政界に対する依存度も末期的症状ではないだろうか。「子ども手当を一人当たり月〇万円を供する」に靡いた意識は正当な有権者意識(民意?)だったとは思えない。政局を得るためだけに、「条件付き公約」を羞恥心も無く提示する手法がなぜ成立したのだろうか。小手先の手法で「(国家の)政治を司る」とは由々しき事態である。自立心の欠如がもたらした症状としか思えず寂しささえ感じてしまう。
3年3か月前に政府の担い手が替わった。
長かった政局に新風が吹きこまれることに細やかな期待感を抱いたのは小生独りではあるまい。期待された政局がわずか3年ばかりの間に「首相(=最高責任者)」の顔ぶれが何人替わったのだろうか?政治力は一朝一夕に発揮できるモノではないと確信している。民意は完璧に裏切られてしまった。皮肉なことに、地震と大津波と原子力発電所の大事故に遭遇してしまった。「国家の舵取り」への期待は弥が上にも急上昇した。
東日本大震災と放射能問題(原発事故)まで引き込んだ未曾有の大事件になったことは政局の担い手としても想定外であったろう。その部分だけには十分に同情するに値する。民意にもその点の理解は十分にあったはずである。だからこそ、素晴らしいリーダーシップを発揮して(政府の総意を結して)、「震災後の一日も早い」復興対策に取り組んでほしいと願ったのが民意であった筈である。福島県にお住いの方々の不運の涙は直視できなかった。風評なる民意も哀しい国民性を吐露した。傷口が膿んでしまったら、切開してその膿みを出すことは初歩的な手法である。そして、傷口を洗浄して新たな治療法を提供する医学は常套手段である。国内の不安定さを外国も虎視眈々と見詰めているようだ。まさに、今日の選挙は「国の行方を占う」最大事となるだろう。
大事故となった原発の存在を論点に挿げ替えてしまった選挙に思える。
原子力発電に前置する言葉に「脱」も「卒」も無い。原子力という今までの「電力」の供給に寄与した組織に対しても、恩恵を受けて「電力に頼る」国民生活を創り上げて来た「政治力」を正面から分析しながら判断すれば良いだけのことである。
原子力発電所が設置されている全国各地の行政管内では「脱」も「卒」もあるまい。自らの今後の生活への連鎖問題だからである。「政権を掴む」道具として言葉遊びをしている遊説カーの声が空しく響いたのは小生だけではあるまい。
今日は、神奈川県から茨城県に転居して2年足らずの選挙民として投票に向かう日である。配布された「選挙公報」をじっくり読み切った。立候補者の違いは理解した。しかし、いつの間にか老脳には、「言葉遊び」をする政治家と言う思い込みが刷り込まれてしまった。どの候補者の公約も訝しく思えて仕方が無い哀しくなる投票日の朝である。
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