年の暮れの風物詩、というには無神経でしょうか?
今年も喪中の葉書が届き始めました。一枚一枚丁寧に目を通します。そして関わりの深かった方のご逝去を知ると、その当時を映す走馬灯が回転します。知人友人のご両親だったりご兄弟だったりと対象の違いはありますが、同様に寂しくなられた関係者の心境が伝わって来ます。
帰宅すると机上に置いてある郵便物を整理します。ホンの数日間だけでも家を空けると、この時期は各種の情報がたくさん届いています。今回は、高知から帰って、いつものように届いている葉書や封書を手にして確認をしました。数枚の喪中を知らせる葉書の中に一枚に目が釘付けになってしまいました。
妻 ●●が2月17日に55歳で永眠しました。
差出人は当然ながら旧知の仲です。むしろこの奥様を通じて知人となった差出人ですのでお名前と享年の文字に16年前の「出会い」が走馬灯に浮かんできました。新米の校長として着任した茅ヶ崎市内の小学校でした。当時のPTA役員をしておられたのが奥様でした。ご長女が5年生でした。校長在職は2年間だけでしたのでご長女の卒業と同時に小生も現職を去って市教委に異動しました。
市教委の卓上の電話がなりました。差出人からの講師依頼の電話でした。日本公文教育研究会(=通称「くもん」)の役職としての講師招請の内容を電話で請けました。差出人とは校長在職中には会っていません。
中学生になっているご長女の推薦があったらしく、この前夜、小生の自宅に電話を掛けられたのが奥様でした。公文研究会で公立学校の校長先生を講師としてお招きして「学校教育の現状について(仮題)」として、指導要領の大幅な改定についての『学習会』設定しているという現況を聴きました。「日程さえ合えば」、とお請けして、実現しました。
業界関係の難しい事はここでは省きましょう。
単身赴任している父親が、赴任先から、PTA役員をしていたご自分の奥様の尽力を求めた電話がきっかけだったようです。ご長女が「角田校長先生なら大丈夫!」と太鼓判を押して電話の向こうの父親に推奨したと言う前夜の動きがあったようでした。そして、その伝道者(仲介人)が奥様だったという訳です。
こうして老脳でも記憶を明確に弄ることが出来る程、強い絆のあるご家庭でした。お請けした講師が縁となって2006年から5年間日本公文教育研究会でお仕事をご主人と一緒にさせていただきました。教員とは異質な公文指導者との関わりも出来ました。5年間の実働の中で、素晴らしい指導者の方々と多くの人間関係を結ぶことが出来たのです。
ふと、「ちょっとした出会い」の大きさに思いを馳せてしまいました。
900人もいた小学生の中の一人の女児が差し出した縁の紐を、母親から父親に伝えられて、そして、きっちりと結んでもらったご家族です。
老妻も記憶していました。
お若い人生の終わりを二人で惜しみました。そして、あの女児も大学を卒業して社会人として活躍していることは、父親から「その後の情報」として得ていました。何歳になっても親との生別は辛いモノだろうと推察しているところです。心よりご冥福をお祈りします。
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