これも「文明」の変化?
同意には否定しないが、聴いている耳が乾燥してしまいそうで空しい文明の利器としか思えないのは小生だけ??録音(=これも「死語」になるのか?)された案内には「臨機応変」の機能は期待できない。生きて、動いている社会では死語による案内より臨場感のあるアナウンスが求められている筈である。その発信元もその意識はあると思われるが蔑にされているのだろう。利益には直結しないからだろう。小生という「独りの旅人」は全国のどこでも同類のパターンで流れて来る器械音にウンザリしながら今年も全国を回った。
たった一度だけ「死んでいない」アナウンスを耳にした。
ある日乗車していた電車が突然停止した。乗客の誰もが「どうしたのか??」と不安に思う。緊急事態のアナウンスには「常体の訓練」では対応できない。その時、車内アナウンスが流れた。「急停車して申し訳ありません。情報が届き次第お知らせしますので暫くお待ちください」との声に車内に落ち着きが戻ったのを確認した。数分後に、またアナウンスが車内に流れた。
「●●駅構内で、前を走っている電車のドアに不具合が生じ、点検をしているとの情報が入りました。少々の停車が必要のようです。お急ぎのところ申し訳ございませんが当駅でこのまま停車いたします。新しい情報が入り次第お知らせいたしますのでご協力をおねがいします」。
これはマニュアルには条件サンプルしか載っていまい。その電車に勤務した車掌の機転である。乗客の多くが、このアナウンスにどれほどの「温もり」を感じたかは計り知れない。確かな情報を得て、(まるで決裁を得たかのように)落ち着いた感情の籠らないアナウンスが流れるのに馴らされている乗客にはホッとする声であった。怒号などが起こる要因が細やかな気遣いで治まるという好例であった。
このことは、何事にも通じる実例ではある。しかし、『臨場意識』というキーワードの再認識を声高に叫びたいのである。先日の衆議院選挙の場外広報アナウンスも、朝も昼も夕方も全く同様の内容が流れる「器械音」に、戯れている幼児だって「同じことをまた言っているよ」と呟くほどであった。
学校教育界でも、機器を使っての学習が浸透している。結構である。ただ、素晴らしい成果のみの追求で使用することを優先させる前に「人間が持つ温もり」の存在価値も考えて取り上げて欲しいモノである。爺の独り言をお許しあれ!!
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