そして、新しい一歩を踏み出したい。
新しい一歩は「過去の足跡」に支えられる。意欲的な一歩にも、躊躇いの一歩にも容易に変わり得る。過去の足跡には色々な思いが交錯する。小生の小中学生時代に下校前に「反省会」という時間があった。何の疑問も無くその時間を過ごした後輩諸兄が多いのではないだろうか。幼いころから「変わりモン」と呼ばれた小生は、「先生、無意味な時間だと思うんですが続けるんですか?」と中学校のある担任に生意気な苦言を呈した。見返りに殴られた。罵声は「ちっと、勉強が出来るからと言って生意気を言いやがって・・」だった。ハッキリと覚えている。
そして教員になった。学年団での協議事項には無かったが、小生の学級でも自然発生的に「反省会」は起ちあがっていた。力のある生徒の横暴な意見に「正直な発言」が死んでしまう事だけは許さなかった。幼い頃の「無駄な時間」と思い込まされた現場感覚だったと確信している。学級と言う生活の場の「現場」で起きる事象は、現場監督である学級担任しか責任を取れないのは当然である。
現場任せ!?
まるでどこかの、何かが責任を放棄しているかのような新聞記事を読むことが多い。何かが違うぞ!いじめの問題の記事もそうだった。自らの学級や学年、あるいは学校でその独特な症状が発見されたら「現場感覚」的な発想さえ確立させておけば「我が事」(=当事者意識)として、総意で協議が展開出来る筈である。それは無駄な時間と誤解されることもあるかも知れないが、その無駄な協議の中の小さな意見が有効なキッカケを産み出すこともあり得るのである。
「現場力の教科書」(光文社新書)という本を読んだ。現場力を軽視しては何も進展しない。今回の新聞記事でも『実施の判断は現場任せ』のトップ見出しである。利根川の支流・黒部川で起きた「高校生ボート18隻転覆」の記事が本末転倒の「批判論」だけで登載されている。
先輩教員の視点から言える読後感がある。「この高校生ボート部の指導者に成り手いなくなるぞ」である。そして想定されるのは、「管轄行政から校長指導が厳しくなるぞ」である。部活動自体が教員のボランティアで成り立っている様相は今でも否めない。つまり、部活動と学校教育の重要な関連性が、この記事のように「責任の追及」だけで攻撃されれば(新聞社の主義主張の傾向で)、学校現場では、二の足を踏んでしまうことは明らかではないか。
批判をする。中傷する。つまり、放言である。これがオピニオンリーダーとなれば現場を担当する人間は「やってらんない」心情に陥ってしまうのは自然の理である。
新しい年がそこまでやって来ている。
現場叩きと批判だけしかない「民意・世論」に太刀打ちできる力の育成が急務ではないか。現場には、信条と信念を培うべく新年の一歩を力強く踏み出して欲しい。理不尽な要求を窓口に訴える市民や県民・国民を創ってしまった背景には「放言まがいの批判」を養成してきた学校教育文化にも責任があるような気がして反省してしまう。そんな老輩の「考え納め(=仕事納め)」の朝である。
情報:新ブログ創設のための練習も捗っています。そろそろブログアドレスも開示しようかと考える程になりました。今日のブログも新ブログでは新聞記事を搭載して編集します。未だ、「出来上がりが読めない」状態ですが、公開する時点では『稽古の足跡』もそのままにしてアップしようかとも考えています。乞・ご期待!!
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