早朝のTV番組に「テレビ寺子屋」というのがある。老妻が決まって視聴しているプログラムではあるが、小生には「耳を傾ける」ほどの興味関心をなかった。昨日までの疲れが、早起き鳥の老体の起床状態を鈍くさせていた。そこに、耳に飛び込んできたのは「父を語る」子息の言葉だった。何回となく繰り返される「父は・・・・」のフレーズに身体の疲れは大脳には無関係だろうか。言葉がビンビンと大脳を刺激して来た。語り手が発する父親とはあいだみつを(=詩人・書家)氏の事であった。
『奪い合えば足りぬ 分け合えば余る』の詩の一節をご子息が、東日本大震災直後に、このフレーズの印刷を数多くの関係者から注文が殺到したことを説明されていた。この現象は阪神淡路大震災直後に被災地から起きたモノとそっくりだったとの言及だった。老体は床に起き上がり老妻の視る画面を一緒に見詰めていた。
大震災直後の外国で起きる略奪・暴動事件を良く目にしたり耳にしたりするが、我が国では起きない(と、評価され外国人には奇異に見える光景らしい)。しかし、外国からは見えなくても、国内での市場の荒れ方には「大人社会の現実」を確実に次世代に映して見せている。買占めや売り惜しみの体たらくは、外国人には透視できないにしても国民感情の中には見苦しい様である事は常識としても受け止められている、と確信している。
子どもの目に映る大人の姿。あいだみつを氏親子のような関係はそう簡単にできることではないだろうが、理想として追求する事には値すると考えたい。ご子息は父親の作品を管理する美術館の館長としてご活躍であるが、「手本になる」親の後ろ姿を見詰めながら「父が生きていたら」の視点で経営に励んでおられるようだ。人が育つには「手本」は欠かすことは出来ない。一方では「見本」も在って良いような気がしないでもない。
『奪い合えば足りぬ 分け合えば余る』の詩の一節を、ご希望の被災者支援団体のために無料でダウンロードできる準備をされたという、ご子息の語り口にも子どもの視線は無視できないと実感した。
小生は教員稼業しか知らないので軽税原理上での議論は闘わせることは出来ない。しかし、「利益や効率」主義だけが罷り通れば人道主義は風の前の塵に等しくなる。哀しくなるのは小生だけではあるまい。教育の世界は「人を育てる」ことを第一義に考えるべきであると信じて疑わない。学問への誘ないは教師の指導力として重要な任務である。しかし、人間性を喪失させてまでも「成績」だけを追求することを学校教育に求められれば100年後の日本には、あいだみつを氏の「詩の世界・禅の世界」に希求された人間の生き様は垣間見る事すら不可能になってしまうのではないだろうか。
つい先日の広島市の小学校で授業観察をした感想を当ブログでも述べたが、一人だけの教師が一人だけの理念と指導法で授業をやっても、どの学級でもあんな風にはならない。そこに集う全教職員が「一丸となって」取り組むところにしか成果は生まれない。当校は「図書館研究大会」に運悪く遭遇したこと(笑)が、実に時機を得た効果に至ったのだと小生は気が付いたのである。
図書室という「学校文化の殿堂」には、教員ではない職員が臨時的任用者として配置されている。勿論、有資格者(=司書及び司書教諭)ではあるが、黒板を背に奮闘することの無い職員である。現代っ子にとっては「ホンモノの先生ではない」職員であれば、怖いもの知らずの状態で無法地帯になる場所にもなってしまう。書物への悪戯や落書きは後を絶たないらしい。これは全国の多くの小中学校の現状ではないだろうか。当校の図書室は自然体で、尚且つ温もりのある歓迎ムードである。ここにも当校に勤務する教員集団の子どもへの指導(愛情)を感じる。
一人のオトナが全ての面で「手本」になることは難しい。しかし、出会った全てのオトナが一丸となって「良い見本」になることぐらいは目標にしても子どもには笑われるまい!!
0 件のコメント:
コメントを投稿