今回の広島遠征(笑)では奇妙な心理状態に追い込まれてしまった。
小学校で2つの授業観察をした。2つの授業を観れば比較も出来るので批評もし易い。トレードマーク(と評価されているらしい)の辛口指導もし易くなるモノである。4時間目に4年生の「道徳」の授業を観察して動顚していた小生に、5時間目の5年生の「算数」の授業では後頭部を鈍器で殴られたような気分に追い込まれてしまった。そして、全校児童を帰して特別設定の「講座(=講義」の席が用意されていた。
教師の顔と名前が繋がる程にこの学校には通い続けているこの学校からは講義内容への「要望・意向」は伝わって来ない。学校現場を熟知している管理職から「今、こんなお話を・・・」というヒントも届いたこともない。
この学校では11月初頭に県レベルの研究発表会を担当したばかりである。ホッとしたのも束の間に、校長から指名された(らしい)二人の教員は指導案の作成に掻き立てられたことだろう。同情に値する(笑)。大きな研究大会までの苦労も察知しているので授業者が気の毒にさえ思えるのも同業者の欠点かも知れない。
授業観察後には、温情も緩慢な評価も、その気遣いなどどっかへ吹っ飛んだ。
それは、以前に垣間見た「子どもの視線」を比較できたからである。教師の誘う発問に喰らいついている眼光の鋭さに度肝を抜かれてしまった。2つの教室とも始業チャイムが鳴る前に教室に入ったが「異物を呑む」体は無かった。つまり、「見せる・観られる」というぎこちなさは子ども達の表情には無かった。教科授業が始まる前の「休み時間」に読書をしている児童がいた。チャイムが鳴ると直ぐに片づけて授業への臨戦態勢に就くのも早かったのにも感動した。自然体として育っていた。
授業が始まる。
「授業の成否は教師の初発の言葉にある」とは、小生の低レベルの授業哲学である。両教師とも初発の言葉を支える「準備資料」が片手にあった。聴覚だけでの初発の言葉は、児童の学習意欲を啓発させるには心もとない。教師の手にある「モノ」は視覚に有効な刺激を擽る代物であるから「子どもの目」を輝かせるのである。
たかが45分間、されど45分間。短くも長くも感じる時間であるが、恐らく多くの子どもにとって「長くは感じなかった」授業であったと確信している。道徳的価値観を指導することは「押しつけに」終始しがちである。しかし、それを自身の作文力で書き込んでおくことが出来る4年生の『書く力』の指導が浸透していた。育てた教師力を実感して脱帽であった。4年生でここまで書ける!?と。
平行四辺形の面積の出し方を、自作の学習プリント(=現代ではワークシートと表現しているようだ)を配布して切ったり貼ったりして「自らの」考えを発表する授業形態に、「教師と子ども」の協働を思い知らされた。5年生の算数、ともなれば一定の学習拒否団が存在しても不思議ではあるまい。現存するのだろうが授業風景の中には映っていない。
前述したが、大きな研究発表大会を終えて1か月も経たない、謂わば「空洞的な時空」に、小生を招請しての授業研究会に「提案授業」をやらされる(笑)のは悲劇としか言い様が無い。その授業者が、資料を手作りにしてオリジナルな授業づくりに取り組んだ涙ぐましい努力には敬意以外表し様がなかった。教師の素晴らしい人間性を見た。その姿が「子どもが育つ」原動力になっているのだろう。
小生には稚拙な教育哲学も幾つかある。その一つが『育てなければ育たたない』である。こんな話を紹介しよう。
授業参観の後で、保護者に向かって「素晴らしい子ども達と出会って幸せです。そんな子ども達から毎日たくさん学んでいます」と慇懃な挨拶をした若い教師がいた。その教師に向かってある母親が「給料を子どもに返してくださいよ?」と対応した。
この話題は双方(教員と保護者)の当事者からの報告で知った校長は苦笑から失笑に変わった。他愛のない会話から小さな教育哲学が生まれたのである。「育てる意識の土壌にしか育つという芽は出ない」と確信したのである。「育てる」のは大人である教師であり、その活動が及んで「育つ」の子どもである。
今回の2つの授業では、「成長した教師」が自らを成長させる努力ぶりが「及んで」45分間を頑張り抜ける「成長した子ども」を創っているのだと断言しても過言ではあるまい。
この小学校の教師集団の成長の水源地はどこにあるのだろうか?推察するまでも無い。小生には十分すぎる程納得している結論が浮かんでいる朝である。
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