2012/12/06

『使命感』に潰されそうな学校訪問

 ~タイミングが難しい「指導と助言」~

 勤務校であれば言えるセリフも訪問先の学校では、そう簡単に言えるモノではない。ややもすると、小生の考えを押し付けていると受け止められては不本意なので躊躇してしまうのである。

 今回の訪問校(昨日)の高知市の小学校でも同じだった。

 通常は一人の教師が授業を公開して、その授業を校内の教員が全員で観察して感想を述べ合ったり意見の交換をしたりして授業を検討する会が開かられる。それを「校内研究会」と業界では呼んでいる。小生も10年前までは「渦中の人」であり、公開された授業を中心にして現職の教員の資質向上に活かすべく真剣に取り組んだのがこの研究会であった。最高責任者としての任を果たすべく工夫も凝らしたものだった。自校の教員への指導は軽く(厳しい)言葉をかける事は容易だった。

 10年を経た今、小生の稼業は「訪問・指導」として外部から出席して責任あるポジショニングを得ている。指導助言や講話・講義・講演と役回りが広がっている。全国の小中高校の授業参観(=小生は参観とは思っていない)を毎日のように繰り返しながら稼業としている。1回だけの訪問で終わった学校も少なくは無い。しかし、多くは3~5回は連続して招請がある。責任重大な「使命感」を忘れてはいない。

 今回の訪問校も4回目だと教頭先生が確認してくれた。4回も訪問している学校でも「言えるタイミング」を掴むのは非常に難しい。授業を参観する意識しか持っていない教員の視線は研究には程遠い。授業を観察する意識で児童生徒を見詰めると授業への評価も浮かんでくると確信しているが、その浸透は至難である。しかも、教員同士の「馴れ合い」から生じる軽言は「傷を舐めあう」発言で終始してしまう。そこには期待される教師間の切磋琢磨は無い。歯が浮くような授業者への謝辞を淡々と述べる教員も多い。外部からの依頼された参加者には焦燥感が漂う。

 どこで、何から切り込んで研究会を活性化するか?

 結局は生命線に触れることも無く何回かが過ぎてしまうことが多い。しかし、今回の訪問校では4回目までの経緯として「教員集団の意欲」が息づいているのがわかった。数回の僅かな小生の助言を、ものの見事に「自分たちの手で」作り上げようとする姿勢が伝わって来たのである。

 公開授業(=小生は「提案授業」と言う)は1年生「算数」であった。まさに「提案授業」となったのも好機を編み出すことに繋がった。訪問校では「事後研究会」と称して着実な足取りを残して小生(=指導助言者)を待ち受けていたことになる。つまり、前回までの助言を忠実に実践することに全校職員の意向が動き始めたように映ったのである。

事後研究会(=本校では「事後研」と言う)が始まった瞬間、「このまま進めてしまったら彼らの素直な取り組みがトンネルから脱出できなくなってしまう」と、脳裏に潰されそうな使命感が蘇った。そして、研究部が編み出した「事後研のデザイン」を遮ってしまって無謀なばかりの「指導助言」に踏み切ってしまった(笑)。

 熱心に聞き入る教員集団の視線が、授業者を見詰めていた本校の子ども達の視線と一致した。たちまち講師としての情熱が熱弁に乗り移ってしまったのである。【続く】 

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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