2013/03/31

暦は、いつもの『一日』なれど・・・

 ~「今日」と「明日」は大違い~

 今朝の早朝歩禅も寒かった。

 昨年までは実践できなかった早朝の歩禅を数日前から実践することに踏み切った。踏み切った朝と気象条件が急変して「冬に逆戻り」の朝である。冬支度の装備で老夫妻の無謀な早朝歩禅を実行した。

 愚痴ではない。

 寧ろ、転居先の自然現象にこの老体が順応していることを慶んでいるのだ。今日のタイトルを通常形式にしたのはそんな意識を意識してのことである。読者諸兄にはご理解できると確信している。

 現役時代から遠ざかって今日で丸9年が過ぎることになる。

 平成16年3月31日は「辞職辞令交付式」であった。定年退職まで1年を残しての退職であったので余計にこの日の記憶が蘇ってくる。定年退職の校長さん達と一緒に教育長と昼食を済ませて市庁舎を車で出た。瞬間、ハンドルが勤務校に向かっているのに気が付いてドキッとした。「もう、帰って行く所ではないぞ~」と自らに言い聞かせる自らに気付いて、初めて目頭が熱くなった。その日が今日である。

 懐古ではないが、暦では「ただの一日」であっても、立場と意識の中では今日と明日とは筆舌し難い違いがあることに気付かされた日なのである。哀しさではない。寂しさでもない。心細い訳でもない。しかし、現実として「用無し」の烙印が3月31日の日付で押されることは「今日」しかない。4月1日とは格段の相違である。期待と不安とで胸いっぱいの4月1日を何度も過ごしている内にこの瞬間がやって来るのだ。

 全国の読者諸兄でも、今日と言う日にこの寂寥感が身に染みるほど感じる後輩が居る事だろう。長い間、お勤めご苦労様でした。心身ともにリフレッシュして下さい。そして、自らの意志で創る次のステージに立つ準備に抜かりのないようにしてください。

そして、明日からは、小生と同様に「退職者」仲間ですよ。ご迷惑でしょうが、この接頭辞は今後ずっと着いて回りますので覚悟して下さいませ(笑)。小生は、もう抵抗感が失せております(笑)。
 
事務連絡: 暫く休刊していた新ブログ『寸心紀行』(右枠・参照)は、4月1日号より復活します。大した記事(内容)では、ありませんが現役時代に書いた「原稿」の復元を中心にしてご紹介します。時期的なズレもありますが、「若かりし頃の筆者」として受け入れてお読みください。

2013/03/30

歩禅の記(17)

 ~「今朝の5時」は暗かった~

 そして、寒かった。

 玄関先を踏み出した老体に、容赦なく吹き付ける北関東独特の北風にはやっぱり躊躇が伴った。歩き出して10分間は自らとの勝負である。「引き返した方が良いのでは?」「やっぱりこの時期の早朝歩禅は止した方が良いんじゃないか」等々との雑念との闘いは人生そのものである。

 今日は昨日より更に雲が多いのか「暗さ」だけが眼前に迫って来て、「こんなにまでして、どうして歩くんだ」と自問も始まる。思考回路で細やかな問答を続けている間にも歩数は増え続けている。30分も歩くと、不思議な程に心の闇も靄も霞も、いつの間にか消えてしまう。そして足取りも軽快になっている。

それは「周囲が明るく」なっているからである。

沼の湖面に太陽光が映らない今日のような朝でも、周囲はすっかり明るくなって見通しが良くなっている。沼の対岸を歩く人の姿も見える。マラソン人もおよその年齢が想像つくぐらいまで鮮明に見える。すると、足元がはっきり見えると「人生の歩調」も軽やかに変調するらしい。

無口で歩くのも暗闇の影響らしい?

口数の多い夫が話しかけると、口数の少ない妻も「明るい環境」になると返答が視やすくなるようだ。僅か60分間であっても、こんな起伏のある時間となるのが、いつ歩いていても不思議におまえて仕方が無い。

昨日の出来事が老夫婦の話題に上る。離任式を済ませて帰って来た二人の小学生の孫たちが昼食を摂りながら、「あの先生にはもって居て欲しかった」「その代わりにあの先生が出て行ってくれたら良かったのに」と笑いながら話していたことが話題になった。

大昔(笑)、自らがそんな話題の主になっていたのだと気付いた夫に妻が言った。「渦中にいる時は本人にはわからないことが多いんですよね」と。これは慰労の言葉と採るべきか迷いながら「早朝歩禅(5:05~5:55 6500歩)」を終えての帰宅である。早朝歩禅の後の身体の爽やかさは格別である。

2013/03/29

歩禅の記(16)

 ~「5時出発」の歩禅・復活~

 3時40分(=体内時計の起床時刻)に起床する。洗面所で外気温を身体が反応する。今朝は「全然寒くないなぁ~」と老体が応えたので身支度を始める。起床して、一日の業務始めは『老脳鍛錬日記』に向かう。

 ある本を読みながら老いる心身の速度を緩める努力だけは怠ってはいけない、との戒めの文章に目が留まってから始めた自己鍛錬法の一つである。「昨日の記憶」を起きたての老脳に問いかける。記憶を辿って時程にそって記録するノート(パソコン上の)である。苦笑する程記憶が戻らない日もあれば、嬉しくなるほどの記憶を明記できる朝もある。その都度「老い」の現象を認知せざるを得ない。もう10年近く続けているので「朝一番」の業務として体内時計も稼働している。

 5時出発の早朝歩禅。

 夏場の時間に設定した時間であるが、今朝のように早朝の気温が高いと、気が逸ってしまう。それだけ老体も当地(気象)に馴れて来た証拠だろう。昨年までは早朝歩禅の開始時期は6月であったからだ。

 曇天の早朝らしく、少々薄暗かった。

 すれ違った散歩人は、犬連れの老婦人1名、独り散歩の老婦人が1名、ランナーの女性1人、それに以前も毎朝会っていた美化清掃を行っている老紳士1人だけであった。まだ、この時期の早朝は散歩には不適なのだろうと思いながら帰って来た。

 足取りは絶好調(笑)であったし、孫たちの通学路を往復すると約60分の7000歩コースとなり十分な時間と距離は老体には最適なモノと確信した。しかし、いずれは時間も距離も減少させる日も来るんだろうな、とも考えながらの今年最初の早朝歩禅であった。明るくなった湖面に、ほぼ満開の桜が映えていた。

2013/03/28

着眼点と着想力

 ~キラキラ輝く従業員を育てる会社~

 同居する長男が出張から帰った翌朝、『離れ』にやって来た。「おやじ、読んでみて!」と1冊の本を置いて出勤して行った。時々推薦書を届けてくれる。時として面白い書物と出会うので楽しみにもしている。

 読み終えた。そして、「逆転の発想」に近い、経営力を高める着眼点とそれを活かすべき「着想力」の偉大さを痛感した。敢えて著書の紹介はしないが、確かな「生き方の指南書」であると実感した。それが著者の「あとがき」であった。実名も入ったままで原文をそのまま添付して「着想力の重要性」をご紹介したい。

 時は春。経営年度も新たになる春である。「経営する」視点として、この部分だけでもご参考にしていただけると確信している。

 

 お わ り に   リスペクトとプライド

 テッセイという会社は「普通の会社」です。けっして「特別な会社」ではありません。 でも、この本を読んでいただいた方はおわかりの通り、ただの「普通の会社」でもありません。テッセイは「キラキラ輝く普通の会社」です。

 ここに、テッセイが注目を集める大きな理由があると私は思っています。

 やっている仕事の中心は清掃業務。けっして憧れの仕事ではありません。

 働いている人たちも、バリバリの高学歴エリート社員はほとんどいません。複雑な人生を背負い、ようやくテッセイに辿り着いた人も数多くいます。

 JR東日本のグループ会社という安定した会社ではあるものの、いわば「下請け」の仕事です。そうした会社では、社員たちは従属的な関係のなかで与えられた仕事だけを、淡々とこなすだけになりがちです。通常であれば、「きらきら輝く」とはほど遠い要素ばかりが目につくところですが、そうした立場にある会社がこれほど活性化し、イキイキしているところに、みんなの大きな関心が集まるのでしょう。

 「普通の会社」でもやり方次第で、こんなに輝くことができる。テッセイはそのお手本を示していると言えます。

 それを実現するために、テッセイではさまざまな仕掛けを講じてきました。試行錯誤しながら、一歩一歩手探りで歩んできました。そこには、他の会社にとってもヒントとなるような知恵やアイデアが数多くあります。

 しかし、表面的な施策や仕掛けだけを真似ても、テッセイのように「キラキラ輝く」ことはできないと、私は思っています。

 テッセイという会社の輝きを根っこで支えているのは、「リスペクト」と[プライド]

です。

 テッセイでは、矢部さんや柿崎さんをはじめとする経営陣、管理職たちの、現場をリスペクトする心、気持ちが、現場に伝わり、浸透しています。「現場こそが主役であり、価値を生み出す源泉だ」と信じ、尊重する姿勢がなければ、現場の輝きなど生まれようもありません。

 親会社であるJR東日本も、鉄道事業を現場で支えてくれているテッセイのようなグループ会社を、とても大切にしています。現場に対するリスペクトは、輝く現場を生み出す起点なのです。

 リスペクトを感じた現場は、実行主体としてのプライドをもち、意欲的に仕事に取り組み始めます。よりよくするための知恵やアイデアも、プライドから生まれてきます。

さらに、テッセイの場合、現場の頑張りをお客さまたちがとても高く評価しています。お客さまのリスペクトが、テッセイの現場の意欲をさらに掻き立てています。

 強い現場、輝く現場に共通するのは、自主性、自発性、自律性です。これらを生み出し、定着させるために不可欠な要素が、リスペクトとプライドなのです。この二つがお互いに影響を及ぼし合い、好循環を生み出したとき、「普通の会社」は「キラキラ輝く普通の会社」へと変身するのです。

 この1年間、この本の取材や学生たちの見学に同行して、何度もテッセイを訪問させてもらいました。その数は10回近くになります。

 毎日の多忙な業務に追われるなか、度重なる取材を快く受けていただいた矢部輝夫専務、柿崎幸人取締役、そして心温まるエピソードを披露していただいた社員の皆様に、心からお礼申し上げます。また、テッセイをご紹介いただいたJR東日本・石司次男副社長にも感謝いたします。

 『未来のスケッチ』に続き、今回の企画を自らご担当いただき、とても素敵な本に仕立てていただいたあさ出版の佐藤和夫社長にはお礼の言葉もありません。また、取材・執筆に全面的にご協力いただいた森綾さん、素敵なイラストで泥臭い内容の本を「キラキラ輝く」本に変えていただいた須山奈津希さん、カバーをデザインしてくださった八木美枝さん、そして秘書の山下裕子さんにも、心より感謝申し上げます。

 テッセイのように「キラキラ輝く普通の会社」が、もっともっとたくさん誕生することが、日本を元気にすることだと信じています。  遠藤 功

2013/03/27

歩禅の記(15)≪植物園≫

 ~訪れてみたかった植物園へ~

 行って来ました。車で30分で到着できました。

 受付で初体験をしてしまいました(笑)。入園料を払おうとしたら受付嬢から「65歳以上の方は無料ですよ」と優しい言葉が掛かりました。受付の文字板にも活字が見えてはいましたが、無料では気が退けるので支払うつもりだったのです。

 小生は免許証があるので証明には抵抗も何もありません。老妻は国民健康保険証を通常は持参していないので少々面倒なことを要求されたことも以前に経験していました。 ¥300 ぐらいなら面倒なことをしないで購入して、他の場所でも今までは入園していました。ところが、ここはとても親切でした。生年月日を伝えるだけで用が済みますよ、と畳み掛けられたのです。気が退けながら無料で入園しました。

 園内の広さにビックリです。
 
 無料入園者でも参考資料をいただきました(笑)。園内案内パンフレットを片手にして歩き始めました。園内には数えるほどしか入場者はいません。老夫婦らしきカップルは、明らかに植物の感傷より「お散歩」の雰囲気でした。視たことのある植物には、流石に「国立科学博物館 筑波実験植物園」らしく、詳細な説明が随所にありました。「これが馬酔木?」「コブシにもこんなに種類があるんだ!」「カタクリって針葉樹林?」等々と他愛のない老夫婦の会話は尽きることなく行き着いた奥地が「熱帯雨林温室」でした。「あつ~い!」の一言で片付くほどの湿度と高温の温室には異常な程に高い背丈の植物が見下ろしていました。

 出ると筑波山が見えました。思わず「寒い筈だね」と苦笑して4000歩の散策を終えました。

 植物の観賞もさることながら、「歩禅」の趣が高尚になったような気分で園を後にしました。

2013/03/26

『今日の花』はチューリップ

 ~花言葉は「博愛」~

 どうしたんですか!?

 そんな声が飛んできそうな書き出しになりましたね。無精者で能天気な性格には、その日によって微細な生活信条などを掲げる習癖(?)は持ち合わせておりません。むしろ、「それがどうしたんだよ」と嘯くのが自然之理と思い込んでいるのが偽らざる現状(老脳生活)なのです。

 ラジオを聴いていると、「今日の花はチューリップです。花言葉は博愛です。」とアナウンスされました。猫の額の我が家の庭先には近所のおばあちゃんから戴いたスイセンの花が沢山咲き始めました。きっと、いつかは「今日の花な水仙です。花言葉は・・・」と流れるのでしょうね。
 千葉県佐倉市の「佐倉チューリップ祭り」(上:写真)で昨年5個の球根を買って来ました。植え込んでいたプランターから新芽が出て、花芽も出ているのが書斎からも見えます。それは、遅い「彼岸の墓参」に来ていた孫が2日前に発見して報告してくれたので気づいてはいました。偶然にも「チューリップ」という言葉が耳に飛び込んできた朝でもあり、サンダルを履いて庭先を歩いて来たのです。確かに花芽が膨らんでいました。

 読者の皆さんの中には、「心中で醸成する言葉のパワー」を信じながら、自らの生活ぶりを鼓舞されておられる方も多いと推察します。

 スポーツ選手の「ゲン担ぎ」に似ているのでしょうね

 いずれにしても「身と心」が一つになることの重要性を教えてくれている手法の一つなんだろうと感じ入っている朝です。今日一日が素晴らしい一日でありますよう願っております(不似合いですが本音です!)。

2013/03/25

『引き際の美学』を熟考中

 ~「身体が気力に付いて行かない」?~

 「身体に気力が付いて行かない」方が引き際の決め手になるのだろうか?思案中の老脳に、また「引退する」プロ選手(=力士)のネット記事が目に留まった。

「身体がついていかない」(=引退表明の弁)

 大相撲の元大関で東十両9枚目の雅山(藤島)が24日、現役引退を表明した。
 今後は年寄「二子山」を襲名し、藤島部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたる。千秋楽で鬼嵐を押し倒し3勝12敗で春場所を終え、師匠の藤島親方とともに会見した。
 雅山は「
まだまだ気力はありますが、体がついていかない。ほっとした気持ちもあります」と話した。雅山は「もう一度大関に戻るつもりで頑張りましたが、この経験を生かしたい」と述べた。     デイリースポーツ 324()1654分配信 

 スポーツ界は体力との勝負ではあるが、「体力の限界」のレベル差を通常人と比べることは不可能であろう。ところがプロのスポーツ界では30歳代後半の選手は常に引退(=引き際)のことを考え、その将来への新たな挑戦を考え出しているようである。その引き際は年齢の差はあっても同質の様である。

 小生のような通常人には「定年退職」という決められた引き際が存在する。しかし、この時点は本人の意志に因るモノではない。個人差は甚大である。定年退職を超えても「現役を続行」する諸兄も多い。小生もその端くれの一人であり、引き際の「言葉さがし」をしている最中である。退職して10年の歳月が流れているからだ。

 気力も萎えて体力も消滅したので・・・、と「引き際の要因」を2つとも述べることだけは避けたいモノだと考えている。これは小生の「小さな美学」である。いずれにしてもその時期の到来も時間の問題である。

 手元に購入して読んだこの本には幾つもの「美学の視点」があり参考になった。

 

2013/03/24

時は『春休み』

 ~孫軍団の襲来に『時』を感じる~

 お彼岸に墓参が出来なかった長女一家(千葉県佐倉市)がやって来ました。お正月以来の里帰りです。この4月から6年生になる孫娘と、やっと1年生の「長い1年間を修了した(笑)」孫息子が離れを独占しています。

 母屋の孫は3人とも男児なので、長女の息子は「宿泊先」は母屋の兄ちゃん軍団との雑魚寝を楽しみにやって来たようです。母屋の雑音(?)は全く聞こえません。離れの爺婆の部屋に泊まっている孫娘は、久しぶりにお祖母ちゃんのお布団と並べて寝るのが嬉しいようで、小声のお話が尽きることなく続いていました。早寝のお祖父ちゃんはとっくに眠ってしまったようで4時の起床時刻まで熟睡でした。

 孫たちが5人で「春休みだから・・・」の言葉に、『時は春』を感じ入っています。目が覚めてメールチェックをして驚きました。幾つもの都市から、「人事異動の概要」を知らせる情報が届いています。退職するまでは「勤務地」以外の人事異動など全く関知していなかったのですから、その後の10年間の足跡を痛感しています。ここにも、『時は春』を感じ入ってしまうのでした。

 遅くなったお墓参りを長女は詫びていましたが、可愛がっていた(長女にとっては大好きだった)祖父母は墓参として訪れてくれたことだけでも歓迎していたことでしょう。参拝する長女の後ろ姿を見詰めながら、我が加齢を痛感しました。幾度の『時は春』を体験しながら、二児の母親になっている孫娘(義父母にとって)の成長をきっと喜んでいるだろうと亡き義父母の笑顔を想像しました。

 老妻は一人っ子で誕生しています。

従って「お墓に居る」両親にとっては、我が家に誕生した三人の子どもだけが孫たちなのです。目に入れても痛くない程可愛がった孫たちが曾孫を連れて墓参することは責務を果たした満足感にも繋がるのでしょうね。

 「明日も泊まるんだ」、と張り切っている孫たちを残して、昨夜の内に長女は自宅に戻って行きました。婿が今日は早朝からさいたま市に用務のために出かけるとの事で、二人の孫たちは承知の上での「お泊り」のようです。

 今日の、孫襲来の被害は一手に爺婆に掛かってきますが、これも幸せと老体に言い聞かせながら嬉しい「忍耐」を自らに強いることにいたしましょう。

2013/03/23

歩禅の記(14)≪早朝歩禅≫

 ~「鶴沼の湖面」にも春が!~

 北関東の冬は、やっぱり寒い(笑)。

 東北や北海道でこのブログをご愛読いただいている方々に笑われそうだが、九州に生まれ育った小生には、「やっぱり寒い」んですよ。笑いながら「春の訪れ」感覚のズレを読み取ってください。

 丁度、6時に家を出ました。

 老妻が同行する。気温の低さで体調を狂わせる老妻なのでこの季節の同伴歩禅には気遣いが大きくなる。しかし、解禁された動物(・・・失言!)のように軽快な足取りの老妻に、「もう少しゆっくり歩いて良いぞ」と声を掛けるほどの快調さであった。鶴沼の湖面が見えてくると、まるで恋人とでも再会出来たかのような軽やかな声が飛び出した。「わぁ~、きれい!」と指さしながら「もう、春ねぇ~」と嬉しそうであった。

 一周して帰宅する定番の歩禅コースは数か月ぶりである。

 途中に田圃も雑木林もあり、鶯の鳴き声も(=今日は不発)聞くことのできる絶景のコースはほぼ60分(約7000歩)で帰宅できる。同じ時間でも体調の良し悪しで異なった感覚となるところが歩禅の歩禅たる所以である。

 この沼の畔に、孫たちが通う小学校がある。歩禅コースは孫たちの通学路でもある。雑木林や竹林で鬱蒼としているので登校時間だけの通学路であり、下校時の通学路は大通りを歩いて帰って来ているようだ。

 久しぶりの「早朝60分間」の歩禅を終えて、帰宅するころにはほんのりと汗ばむような陽気になったようだ。これからは毎日の気象情報を感知しながら「早朝歩禅」の復活である。真夏になれば5時には家を出て、朝陽に見送られての帰宅になる時間設定もできる。

 歩ける(ほどの)健康。歩ける恩恵が出来るだけ長くいただけるような健康管理をしようと、老妻とも誓いながら平成25年初回の『早朝歩禅』を終えた。 【6:00~6:50 6500歩】

2013/03/22

新聞記事を読んで

 ~「学歴神話」と『生きる力』~

 同一ページの左右にあった新聞記事を切り抜いた。

 時として妙な取り合わせ(一見したら全く別世界)の記事が並列に載っていることがある。新聞編集者も「こんな見方」をする読者は想定しないだろう。
 

 店を持たずに全国を出張してパスタをふるまう、という石川進之介さん(31)の生活信条は①素材の良さを消さない②客の顔をみて料理する、の二本かな?

広がる格差社会を憂い①「学歴神話の崩壊」に言及して、教育の格差を縮めるために②幼児教育の無償化を提唱する耳塚寛明・お茶の水女子大学副学長。

読者の小生は、開いたままの新聞記事を交互に目を配りながら、自らの「生い立ち」から「生き甲斐」追究への道程を次のように考えてみた。

教育神話とは「発展途上」時代には必要な道標ではないだろうか?努力は嘘をつかないと励ます教師の言葉が「神話」に聞こえて頑張った。貧乏人の子どもでも「奨学金を受けて大学に行ける」と教師の激励も「神話」となって現実化に貢献してもらった。自らは決して「努力家」ではない。だから、母子家庭に育った時代(格差社会)が「発展途上」時代であったことが幸運だったとしか思えない。

学校がかつてほど「平等化装置」としての役割を期待されなくなった・・・・

この行(くだり)を目が追いながら、40年近く勤務した場所がそんな装置だったのか、と他人事に考えている小生は何者だ??教師の風上にも置けない人生を歩んで来てしまったようだ。

そこで、立ち止まって考えると、石川氏の記事からヒントが飛び込んできた。

学歴では『生きる力』を養成できないが、職業を追究すると「生き甲斐」に到達できる。生き甲斐こそが『生きる力』ではないか!何をしてどのように生きるのが一番の仕事の「遣り甲斐」に繋がるかを考えさせられる。このことが教育ではないだろうか。そんな教育の過程には「違い」はあっても、それを「格差」とは言えまい。

食材の「素材の良さを消さない料理を編み出す」ための全国行脚が生き甲斐ならば「お店を持つ」という生き甲斐とは同居することはできない。どこの大学を卒業したら幸せを掴めると言うのか。努力をしたら幸せ感に到達できるのは歩んで来た我が道への愛着があるからだろう。幸せは絵に描いた餅ではない。

教材を旬にして授業をやってあげる教師には子どもたちの充足感の顔を、喜んでみることは出来ない。教師としての幸せなど永久にやって来ない。これは確信に近い信念である。「格差がない人間社会」の本質は外見ではない。心の中の深層部に潜んでいる「生きる力」のマグマでしか測れないのではないだろうか。

いつも、誰かの所為にして・・・・。

確かに日本社会が隣近所と助け合うことが少なくなったようだ。隣の幼児の面倒を看あっていた古き日本社会であれば幼児教育は地域で出来た。そこには貧乏社会しかなかった。そこには学歴などが闊歩する生活は無かった。

店を持つことが主流で、都会の一流レストランのシェフが尊敬されるだけが実社会だとすれば石川氏の生き方にはご両親も親族も落胆されるだろう。

どちらも現実を直視している記事である。隣接する配置に暫し考え込んだ。老いぼれ脳味噌に「新しい麹」を入れ込まれた気分になったのである。

2013/03/21

ラジオを聴いて

 ~ほぼ10年前の記憶を弄って~

 「書き残したい、あなたの気持ち①」としての番組(午前4時から)をいつものように朧な気持ちで聞き流していました。『木のいのち 木の心』という書名がゲストの塩野米松氏の口から発せられてからは、耳がダンボになってしまいました。こうなると小生の全身は行動体制に入るのです(笑)。

 布団に寝ているのですから目は天井を視ています。

 その天井に、『木のいのち 木の心』の表紙が明確に映りました。現職を退いてテンヤワンヤの日々であったことも思い出していました。デザインもほぼ正確なまでに浮かんできました。なぜならば大きな衝撃を受けた「教育論」だったからです。

 この頃から、教育者やその関係者(研究者や評論家)が論述する教育論に細やかな抵抗感を抱き始めていたので「宮大工」という職業もさることながら、「徒弟制度」への郷愁も助け舟になって読み切りました。読み込んだつもりでした。そして、宮大工の小川三夫氏の文才に圧倒されたものでした。

 お断りしておきますが、小川氏への冒涜ではありません。氏の言わんとする内容が既成の「教育論」が持ちえない世界を掘り下げていただいていたからだけなのです。~・・・・・学校の勉強は記憶や抽象的な思考の訓練でした・・・・・~の(くだり)には当時(教育の現場から身を退いたばかり)の小生には、求めていた刺激が遅きに失した悔しさだけこの書物の思い出として残っていました。

 今日の話題は「書物の思い出」ではありません。
 跳び起きて書棚から本を探し出しました。この書物の「あとがき」で確認できました。ちゃんと読んだはずの書物でしたがラジオのゲスト・塩野米松氏の肩書が「聞き書き作家」であると学びました。この職業ジャンルを初めて知ったという爽やかな衝撃を読者諸兄にもお伝えしたくなってブログに登載した次第です。既にご存知だった諸兄には無駄な時間をお付き合いさせてしまいました。

 何歳になっても「知らないことの多いこと」に遭遇します。その度に、「そう簡単には死ねんなぁ~」と勝手に呟いている朝です(笑)。

2013/03/19

『想定外』の展開に感動

 ~30年ぶりに『我が聖地』を訪問して~

 多忙な現職教授の時間を予約して出かけました。

 行き先は教授の勤務先・筑波大学です。北海道大学に次ぐ広大なキャンパスであることは情報としては得ていました。この歳になって、「今更」の大学構内への潜入(笑)ではありますが、隣接都市に転居したので「訪れてみたい」場所の一つでもありました。

 10年前、現職を辞する直前に校長室でお会いした教授との再会をお願いしてみたのです。快く数日の候補日をいただき、昨日(18日)の午前10時を確保して頂いて「夢の実現」を果たすことが出来ました。

 氏の研究室では、ご無沙汰の謝罪からその後のご活躍ぶり(紹介した茅ヶ崎市教委や市内の学校訪問)へのお礼の言葉等々の、ごちゃ混ぜの世間話風時間であっという間に午前中が過ぎてしまいました。

 お願いをしてみました。厚かましい人間性は小生のトレードマークです。

 筑波大学に隣接する(当時の)国立教育会館筑波分館へのご案内を乞いました。気持ちよく自家用車(=広すぎてキャンパス内は自動車でないと動けない)でのご案内になりました。現在では独立行政法人・教員研修センターとなっていました。正面玄関自体の佇まいは30年前と大差は無かったのですが内部に入り込んでみると全く別世界の様でした。しかし、思い出の詰まった寄宿舎等は30年前と酷似していました。懐かしさで胸がいっぱいにもなりました。

 筑波大学の教授が同伴して戴いたのでセンター内にまで潜入できた上に、案内役の方も付きました。小生が受講した折の事務官であった方の案内でした。思いがけない部屋にもご案内されました。そこには、当時の正面玄関に附いていた会館名のプレートが保管されていました。感動の再会でした。

 お礼を言って車で大学まで戻りながら「30年前までのタイムスリップ」の時間提供のお礼を申し上げました。

想定外の歓迎に、古稀前の老脳にも感涙の嵐が吹きまくっていました。外は、煙霧で視界が狭くなった状況下に強風(春の嵐)も吹きまくっていました。花粉症患者には感動どころでは無い最悪の気象状況でしたが、・・・・。(感謝・感動)
 

事務連絡:このブログでは写真の提供が満足にできません。新ブログ『寸心紀行』(右枠をクリックして)にて、『我が聖地』の訪問写真館を公開します。スペシャルレポートを覗いてみて下さい。

2013/03/18

『彼岸の入り』に想う

 ~「故郷の香り」を供えて~

 平成19年に両親が逝った。次男夫婦の両親には自らの墓碑はなかった。その一人娘で育った妻は両親を弔う「お墓」を作るのは当然の使命であった。現状の生活と「墓守」の関係は、その距離間が大きければ大きい程難題になっていることは我が家も同じだった。

 米寿を過ぎた頃から両親の変化が顕著になり、老衰の一途を辿ることになり症状の厳しかった母が(運よく)特養ホームに入所できた。娘である妻を嫁がせて以来30年以上も二人だけで過ごさせてしまったツケは回って来た。話し相手、いやけんか相手の消えた大きな家の中で独りになってしまった父親にも孤独(不安)な闘いに挑む気力が日毎に萎えて来てしまって、ついに決断の時がやって来た。

 柱にしがみついて離れようとしない父の凄い抵抗も、娘の一言には勝てなかった。「茅ヶ崎で孫たちが待っているんだよ」の一節で抵抗を止めて九州新幹線に乗ってくれた。

 若干の手入れを済ませて迎えた茅ヶ崎の自宅で2年2か月を過ごした父親は日に日に無口になり、大好きだった焼酎での晩酌も「もう要らん!」と言葉を発した後は水分も摂ろうとしなかった。最終的には老人専用の最終ケアの病院で逝ってしまったが、3人の孫とその家族と会って(死ぬまで意識はしっかりしていた)、最期の言葉も交わして、同じ年の8月に他界した妻を追うようにして逝ってしまった。

 今年は『七回忌』の年回りである。

 前日に故郷に住む姪(父の兄の娘)から送り届けられた特産のミカンを墓に供えて、彼岸の墓掃除を済ませた。九州で生まれ育って、満州で終戦を迎え着の身着のままで帰国した苦労話を置き土産にして、ここ北関東の茨城県土浦市の地に葬られて眠っている両親のお墓もお彼岸の化粧直しが完了した。

 生まれ故郷に墓地を設けて眠らせるのが親孝行ではないか、とも案じたが、長男一家(両親にとっては孫一家)の墓守りがあることが親孝行だろうと決断を下した。

 お彼岸には嫁いだ娘たちも里帰りするだろう。曾孫たちの賑やかな声が墓地に木霊すことを考えれば、勝手な自己満足ではあるが「許してもらえるかな」と考えている「春の彼岸入り」の朝である。

2013/03/17

東京地方の「桜の開花宣言」 

 ~人事異動の「花便り」も満開~

 ご多分に漏れず、当方にも公的・私的による人事異動の「花だより」が届き始めました。恒例の事ながら時を同じくして東京・靖国神社の桜が開花したとのニュースがTVニュースで広報されます。

 定年退職までの数年を繰り上げて退職することにした後輩からのメールには感涙した。返信の言葉に詰まってしまいました。「定年退職まで、後1か月を切りました」のメールには、「ご苦労様でした」と言葉を添えながら、「退職してからの時間が長いぞ~」と冗談も添えました。

 昨年、教員採用試験対策講座で小生の指導を受けた聴講生からは「横浜市立〇〇小学校配属が決まりました」と葉書が届きました。「おめでとう」と返信の葉書には記しましたが、「まだ決定ではないぞ」と嫌味とも取れる言葉を添えて、いい意味での緊張感を呼び戻そうと気を遣いました。

 退職した仲間から、我が子が教員の道を歩むようになったとの「歓び」のお便りを頂戴しました。返信にはかなり厳しい言葉を連ねてしまいました。「お母さんのような教員にだけはならないように看守してあげましょう」と。現職時代の後輩同僚ですので、苦笑しながら読んでいることでしょうが、こちらは真剣でした(笑)。同業者二世の誕生を真摯に受け止める「親」であって欲しいという先輩の親心です。

 そんな時期が今年も「桜の開花宣言」と一緒に北上してまいりました。

 現職の指導主事さんからも苦悩の現実がメールで届きました。指導主事を拝命したら採用順に現場に戻れることは無いことを知らせてあげました。来年度も行政職を継続する真意を理解してもらうためです。学校現場を3年も離れると、里帰りの潮時が待ち遠しい心情は経験者だからこそ十分すぎる程わかるからです。

 退職人生には「退職通告」はありません。

 昨日、ある月刊誌が贈られて来ました。執筆者ですから送呈本です。読み返しながら、「いつ書いたっけ??」と能天気に回想録をめくりました。原稿の執筆依頼があると、10日間内には編集者に完成させた原稿を送ります。依頼された編集者にご迷惑をお掛けすることを避けるためです。退職者には代筆者がいません。

新年度4月号の原稿だったのです。退職人生には原稿締め切りまでの「ゆとり」など存在しない、と考える私的・人生訓です。

2013/03/16

『水俣病』は、我が故郷

 ~未だ、小学生だった日の哀しい思い出~

 

毎日新聞3月15日(金)配信

≪水俣病≫『国の認定基準は誤り』上告審弁論で原告主張

◇水俣病   チッソ水俣工場(熊本県水俣市)の排水にメチル水銀が含まれ、汚染された魚介類を食べた人に起きた神経系の中毒症。1956年に公式に確認され、65年には昭和電工の排水を原因とする新潟水俣病も確認された。日本の「公害の原点」とされる。2件の訴訟は、熊本県から認定を棄却された2人(うち1人は遺族)が棄却処分取り消しなどを求めて提訴。77年に77歳で死亡した母親の認定を求めた熊本県水俣市の次男の訴訟は、1審の敗訴に対し2審・福岡高裁が、症状が感覚障害だけの水俣病もあり得るとして逆転勝訴とした。一方、大阪府豊中市の女性(今月3日に87歳で死亡、遺族が承継)の訴訟は、1審勝訴に対し2審・大阪高裁が逆転敗訴とした。
◇「苦労を終わりにして」  「早く私の苦労を終わりにしてください」。弁論では、77歳で死亡した母チエさんの認定を求めて提訴した水俣市の溝口秋生さん(81)が意見を述べた。水俣病の関連訴訟が最高裁の法廷で審理されるのは、04年の関西訴訟以来、約9年ぶり。
 1審・熊本地裁は08年1月、溝口さんに全面敗訴を言い渡した。これに対し、2審・福岡高裁は昨年2月に逆転勝訴判決。国の認定基準も不十分と批判した。「高裁で、やっと私の言うことを信じてもらえたのだと、街中を胸を張って歩ける気分になった。高裁判決を変えることは許されない」と力を込めた。
 もう1件の訴訟の原告女性は、弁論を前に今月3日、87歳で亡くなった。訴訟を引き継いだ長女(67)は弁論を傍聴後、「母は最後まで水俣病と認定されることを願ってきた。裁判官には訴えが伝わったと思う。早く勝訴を報告したい」と涙ながらに話した。

 登校中に猫の死骸を発見しては哀しんだ。友人の家の飼い猫が「居なくなった」と話していたが、死骸はその猫だった。哀しむ友人に何と言って慰めて良いのか、と子供心にも苦労した。

 わが郷里は熊本県八代市。

水俣市は鹿児島県寄りの市であるが、海上では「八代海」と一緒である。八代海の魚介類を食べると「水俣病」に罹るとの『うわさ』が潜行していた。小生が誕生した町の地名は「浜町」であることからも八代海に面する漁師町であることは判断できる。小生が育つ時点では八代海の干拓が急ピッチに進んで、僅か数年で、遠浅の海岸がすっかり埋め立てられて、雲仙・普賢岳が眼前に迫ると感じる程までに海岸線が変わり、漁師は減って半農半漁の寂れた町となっていた。

高校に入学した。水俣市から汽車(当時は電車ではない)通学していた友人の父親がチッソ水俣工場に勤務していることは知っていたが、自らの命を絶たれたとの事実も卒業前に知った。彼は大学進学を断念して(当時の)電電公社に就職した。その後の消息は知らない。

『公害』という学習が次世代には課せられた。戦後の復興策として産業奨励があったのだろうが、発展途上の当事者にとっては「有害も」利益追求に押し潰されたのである。しかし、その後遺症で60年もの間の闘病生活も縁者にしてみると言外ではないだろうか。「認定の有無」が審判のキーポイントとは何と哀しいことなのか。せめて「人災」であることが認知されているとなると保障は無限にして欲しい。そんな哀しい、遠い昔の故郷の風景を思い出すネット情報である。

2013/03/15

素敵な話の『お裾分け』

2013228日 読売新聞

亡き妻の分も学ぶ…79歳山下さん、あす定時制高卒業  

 愛媛県八幡浜市の県立八幡浜高校定時制で4年間学んできた山下一郎さん(79)(八幡浜市大平)が3月1日、卒業式を迎える。早くに妻の万里子さんを亡くし、「妻の分まで勉強しよう」と入学。貪欲に英語やパソコンなどを学び、孫と同世代の級友たちは「一番の努力家」とたたえる。卒業式では無遅刻無欠席の「皆勤賞」を受ける予定だ。

 山下さんは広田村(現・砥部町)出身で、同市の叔母の家に養子に入った。中学3年の時に養父が病死し、高校進学を諦めた。紙問屋に勤め、宮崎県出身の万里子さんと結婚し、1男をもうけた。独立して夫婦で2軒の化粧品販売店を経営していた。

 1990年、万里子さんが肺がんで亡くなった。48歳だった。山下さんは気落ちし、7年後、店をたたんだ。引退後は趣味の山歩きに熱中し、自然保護団体にも入った。鳥の分布を調べるうち、地理学や、環境破壊の歴史などを知りたいと思い、「高校に入って勉強しなおそうか」と考えるようになった。

 ただ、すでに70歳を超え、踏み出せなかった。ある時ふと、万里子さんが闘病中につぶやいた言葉が頭をよぎった。「私の青春を返して」。音楽の教師になりたいという夢を持ちながら、大学進学がかなわなかったのだ。2009年、万里子さんの分も勉強しようと決心し、受験した。

 「一緒に頑張ろうや」。入学式の日、髪を茶色に染めた2年生の男子生徒が、声をかけてくれた。孫の年頃の同級生たちとバドミントンや卓球をして汗を流した。もちろん苦労もした。英語は覚えたはずの単語が出てこず、パソコンは両手で打てない。それでも「落胆したことはあったが、しんどいと思ったことはない」と振り返る。

 4年生の夏休み、作文の発表者に選ばれた。担当の松本和代教諭(38)と書く内容を練っていた時、妻が残した手紙が、未開封のままであることを打ち明けた。「闘病のつらさや苦しさが書いてあったらと思うと、封が開けられません」とうつむく山下さんに、松本教諭は「読むことが、供養になるはず」と励ました。

 一緒に家へ取りに行き、再び学校に戻って開封した。便箋12枚。発病し、1度目の入院から帰宅した1986年末に記された手紙だった。

 副作用で髪が抜けたこと、長時間の点滴がつらいこと……。「44歳の発病は早すぎます」の文面に、悔しさがにじんでいた。そして、山下さんの健康を気遣った後、こう締めくくられていた。

 〈幸せでした。満足でした。ごめんなさい。お先に。お父さん大好きよ。ありがとうございました〉

 その場ではちゃんと読めず、家に帰ってもう一度見た。妻を思い浮かべ、「うん、うん」とうなずきながら読み、目を潤ませた。

 作文は、妻への返信として書いた。

 〈あなたの分まで学びます〉  卒業式では、卒業生11人を代表し、証書を受け取る。

 同級生の一人、此上優子さん(20)は「誰よりも努力する姿が、『頑張れよ』って励ましてくれているようだった」と振り返る。担任の鈴川浩司教諭(50)は「分からないことは分かるまで学び、中途半端に終わらせない」と評価する。

 山下さんは「一緒に学んだ級友、お世話になった恩師はもちろん、学校の草や木にも頭を下げたいほど」と、感謝しきりだ。        (梶原善久)
 
 
 
こんな素敵な情報を独り占めは出来ません。
ネット情報として受信しました。写真の付いている記事でしたが、上手くアップできませんでした。申し訳ありません。しかし、こうして「素敵なお話」もさることながら、イヤな情報も好むと好まざるとに拘わらずいとも簡単に情報として飛び込んでくる時代になりましたね。情報収集能力に加えて、判断・診断・決断の「3断」が問われる時代になったとも理解しておきたいものです。
 

2013/03/14

初めて知る『異常気象』

 ~水戸市内で遭遇した「砂嵐」との初体験~

 昨日(13日)も、10日の水戸市内で遭遇した現象に良く似た気象現象になった。孫たちの遊び場として利用されている庭には草木もない。地面が露出されているので離れの窓ガラスに叩きつけられる砂の音が不気味に感じたほどだった。

 新聞記事で「煙霧」という言葉を拾った。

 意味不明の気象用語であるのは、聞いたことも見たことも無いからである。薄い知識力での判断は、「水戸市まで黄砂が飛ぶようになったのか!?」程度であった。水戸市で仕事を終えて常磐線での上り線に乗った。高い山の無い水戸市以西を走る常磐線の車窓には、筑波山の姿が様々な角度で違った山ではないかと目を疑うほどにくっきり見えるのが常磐線の旅情である。

 ところが10日(日)の午後は様子がおかしかった。

 全く別世界を旅している気分になる程、山塊が白っぽい空気に囲まれて視界を遮ってしまっていたのである。異常な風景は、視る人にとっては不気味にも思えて恐怖心にも連なってしまう。何が起きたんだろう??何かが、また、被災地を襲わなければ良いが、と浅ましい人生観が恐怖心を煽ってしまった。

 花粉症の復活宣言をしたのもこの日からである。ネット資料で「薄い知識」を獲得したくなったので以下に示して、読者諸兄と共有したい。
 
  10日午後2時前の東京都内の映像では、東京タワーがかすんでいた。関東地方の広い範囲が、薄茶色の雲のようなものに覆われてしまった。街を行き交う人々は、マスクをしたり、目を覆っていた。
 これも黄砂の影響かと思いきや、日本気象協会の木村雅洋気象予報士は「気象庁の観測では、東京を含め、関東では、10日は黄砂を観測していないということなんですね。ですので、東京都心で飛んでいた砂というのは、おそらく関東地方の砂が舞い上がったものと考えられます」と話した。
 風で砂が舞い上がり、空中に浮遊した状態。これは、煙霧と呼ばれる現象。

自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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