~対応できる「体制づくり」~
最近、頓に『潮時』という言葉が脳裏を掠めることが多くなった。
これも加齢を証明する症状かも知れないと勝手に合点している。最も強い印象として今でも鮮明に記憶している『潮(時)』という言葉を耳にしたのは小生が中学3年生の春だった。嫁いだ長姉が出産のために実家に帰って来ていた。高校受験日の直前だった(正確には3月4日)。
奥の部屋で長姉のお産が始まったらしい。母の大きな声しか聞こえないが昔造りの農家の家である。大声は庭先に出ていてもハッキリ聞こえた。母親が娘を叱っている!!そんな音色だった。
お産の手伝いに駆けつけた叔母(母の妹)に向かって、「暦を見て来て!」と大声を発した。潮の干満が書き込んであった昔のカレンダーのことだったようだ。潮の干満と「お産」と「死亡」との関係がある、という事は無事な出産を終えた姉に向かって話していた母の言葉を聴いて知ったのである。お湯を沸かして盥に入れたりする手作業をてきぱきと指示する母親の行動も、「全てが潮時」に応じていたようだ。
満ち潮と引き潮の時刻(=『潮時』)。
潮干狩りの時にしか意識しなかった少年には「何のことなのか」サッパリわからなかった。動物という自然界の『生き物』は、自然分娩(誕生)に始まり自然終息(死)で終わることを教えてくれたのである。だから、母の口癖は、『潮の干満』には誰も竿は差せない、であった。なるようにしかならない!!は母の捨て台詞でもあったことに完全納得であった。それ以外を「事故」とも言及していた。文明の利器が謳歌すればするほど「事故」が多くなるとも学んだ。その姉も他界して今年は7回忌である。
そして、昨日。
小生の『潮時』は??大袈裟ではないが、オファー(申し込み)の電話が鳴りっぱなしであった。車中にも移動先にも、そして帰宅しても満ちてくる潮に追いかけられて遠浅の有明海の砂浜を走って帰った少年の日の光景が浮かんできたのである。
来年は古希を迎える老体に、未だオファーがある。潮時は満ち潮なのか?これは請けざるを得ない。しかし、体力の維持管理に無理を強いることはできない年齢になっている。潮の流れに竿を挿さないで、無理の無い体制づくりに心がけねばなるまい。受信した電話やメール、郵便物を整理してカレンダーに書き込んでみてビックリ!去年もこんな状態だったのかな?と自問してみた。
なるようにしかならん!!しかし、努力を怠ってその潮の流れを待つ気にはなれん!この性分も『潮時』が作ってくれたんだろうか!まだまだ、意欲十分な老体である。「引き潮」になったら静かに矛先を収めることにしよう(笑)。
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