~「故郷の香り」を供えて~
平成19年に両親が逝った。次男夫婦の両親には自らの墓碑はなかった。その一人娘で育った妻は両親を弔う「お墓」を作るのは当然の使命であった。現状の生活と「墓守」の関係は、その距離間が大きければ大きい程難題になっていることは我が家も同じだった。
米寿を過ぎた頃から両親の変化が顕著になり、老衰の一途を辿ることになり症状の厳しかった母が(運よく)特養ホームに入所できた。娘である妻を嫁がせて以来30年以上も二人だけで過ごさせてしまったツケは回って来た。話し相手、いやけんか相手の消えた大きな家の中で独りになってしまった父親にも孤独(不安)な闘いに挑む気力が日毎に萎えて来てしまって、ついに決断の時がやって来た。
柱にしがみついて離れようとしない父の凄い抵抗も、娘の一言には勝てなかった。「茅ヶ崎で孫たちが待っているんだよ」の一節で抵抗を止めて九州新幹線に乗ってくれた。
若干の手入れを済ませて迎えた茅ヶ崎の自宅で2年2か月を過ごした父親は日に日に無口になり、大好きだった焼酎での晩酌も「もう要らん!」と言葉を発した後は水分も摂ろうとしなかった。最終的には老人専用の最終ケアの病院で逝ってしまったが、3人の孫とその家族と会って(死ぬまで意識はしっかりしていた)、最期の言葉も交わして、同じ年の8月に他界した妻を追うようにして逝ってしまった。
今年は『七回忌』の年回りである。
前日に故郷に住む姪(父の兄の娘)から送り届けられた特産のミカンを墓に供えて、彼岸の墓掃除を済ませた。九州で生まれ育って、満州で終戦を迎え着の身着のままで帰国した苦労話を置き土産にして、ここ北関東の茨城県土浦市の地に葬られて眠っている両親のお墓もお彼岸の化粧直しが完了した。
生まれ故郷に墓地を設けて眠らせるのが親孝行ではないか、とも案じたが、長男一家(両親にとっては孫一家)の墓守りがあることが親孝行だろうと決断を下した。
お彼岸には嫁いだ娘たちも里帰りするだろう。曾孫たちの賑やかな声が墓地に木霊すことを考えれば、勝手な自己満足ではあるが「許してもらえるかな」と考えている「春の彼岸入り」の朝である。
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