~未だ、小学生だった日の哀しい思い出~
毎日新聞3月15日(金)配信
≪水俣病≫『国の認定基準は誤り』上告審弁論で原告主張
◇水俣病 チッソ水俣工場(熊本県水俣市)の排水にメチル水銀が含まれ、汚染された魚介類を食べた人に起きた神経系の中毒症。1956年に公式に確認され、65年には昭和電工の排水を原因とする新潟水俣病も確認された。日本の「公害の原点」とされる。2件の訴訟は、熊本県から認定を棄却された2人(うち1人は遺族)が棄却処分取り消しなどを求めて提訴。77年に77歳で死亡した母親の認定を求めた熊本県水俣市の次男の訴訟は、1審の敗訴に対し2審・福岡高裁が、症状が感覚障害だけの水俣病もあり得るとして逆転勝訴とした。一方、大阪府豊中市の女性(今月3日に87歳で死亡、遺族が承継)の訴訟は、1審勝訴に対し2審・大阪高裁が逆転敗訴とした。
◇「苦労を終わりにして」 「早く私の苦労を終わりにしてください」。弁論では、77歳で死亡した母チエさんの認定を求めて提訴した水俣市の溝口秋生さん(81)が意見を述べた。水俣病の関連訴訟が最高裁の法廷で審理されるのは、04年の関西訴訟以来、約9年ぶり。
1審・熊本地裁は08年1月、溝口さんに全面敗訴を言い渡した。これに対し、2審・福岡高裁は昨年2月に逆転勝訴判決。国の認定基準も不十分と批判した。「高裁で、やっと私の言うことを信じてもらえたのだと、街中を胸を張って歩ける気分になった。高裁判決を変えることは許されない」と力を込めた。
もう1件の訴訟の原告女性は、弁論を前に今月3日、87歳で亡くなった。訴訟を引き継いだ長女(67)は弁論を傍聴後、「母は最後まで水俣病と認定されることを願ってきた。裁判官には訴えが伝わったと思う。早く勝訴を報告したい」と涙ながらに話した。
◇「苦労を終わりにして」 「早く私の苦労を終わりにしてください」。弁論では、77歳で死亡した母チエさんの認定を求めて提訴した水俣市の溝口秋生さん(81)が意見を述べた。水俣病の関連訴訟が最高裁の法廷で審理されるのは、04年の関西訴訟以来、約9年ぶり。
1審・熊本地裁は08年1月、溝口さんに全面敗訴を言い渡した。これに対し、2審・福岡高裁は昨年2月に逆転勝訴判決。国の認定基準も不十分と批判した。「高裁で、やっと私の言うことを信じてもらえたのだと、街中を胸を張って歩ける気分になった。高裁判決を変えることは許されない」と力を込めた。
もう1件の訴訟の原告女性は、弁論を前に今月3日、87歳で亡くなった。訴訟を引き継いだ長女(67)は弁論を傍聴後、「母は最後まで水俣病と認定されることを願ってきた。裁判官には訴えが伝わったと思う。早く勝訴を報告したい」と涙ながらに話した。
登校中に猫の死骸を発見しては哀しんだ。友人の家の飼い猫が「居なくなった」と話していたが、死骸はその猫だった。哀しむ友人に何と言って慰めて良いのか、と子供心にも苦労した。
わが郷里は熊本県八代市。
水俣市は鹿児島県寄りの市であるが、海上では「八代海」と一緒である。八代海の魚介類を食べると「水俣病」に罹るとの『うわさ』が潜行していた。小生が誕生した町の地名は「浜町」であることからも八代海に面する漁師町であることは判断できる。小生が育つ時点では八代海の干拓が急ピッチに進んで、僅か数年で、遠浅の海岸がすっかり埋め立てられて、雲仙・普賢岳が眼前に迫ると感じる程までに海岸線が変わり、漁師は減って半農半漁の寂れた町となっていた。
高校に入学した。水俣市から汽車(当時は電車ではない)通学していた友人の父親がチッソ水俣工場に勤務していることは知っていたが、自らの命を絶たれたとの事実も卒業前に知った。彼は大学進学を断念して(当時の)電電公社に就職した。その後の消息は知らない。
『公害』という学習が次世代には課せられた。戦後の復興策として産業奨励があったのだろうが、発展途上の当事者にとっては「有害も」利益追求に押し潰されたのである。しかし、その後遺症で60年もの間の闘病生活も縁者にしてみると言外ではないだろうか。「認定の有無」が審判のキーポイントとは何と哀しいことなのか。せめて「人災」であることが認知されているとなると保障は無限にして欲しい。そんな哀しい、遠い昔の故郷の風景を思い出すネット情報である。
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