~見舞いを兼ねて土浦まで~
書斎の室温が10度。
昨夜の「明日の天気」予報とは少々ズレているようです。もう少し冷え込んで積雪も予報されていたのですが、窓の外も街灯の灯りからしか判断できませんが降雪はないようです。妻と二人で土浦の長男宅に向かうことになりそうです。
昨日、退院したという長男から電話がありホッとしました。電話の声も元気だったので心配は削減しましたが入院中の見舞いもしていないので行くことにしています。数日間の父親不在の寂しさを紛らすかのように電話の向こうでは三人の孫達の興奮気味な騒音(笑)が聞こえてきました。孫からは「お祖父ちゃん達はいつ来るの?」との問いを妻にしたそうです。
我が子の入院・手術となれば患者の年齢に関係なく馳せ参じるのが「親」だろうに・・・。
既にご予約いただいている仕事が入っていたために、後ろ髪を引かれる思いで用務を果たすために県外まで行って来ました。それでも病院から自宅に戻ったとの一報を聴きながら恐縮至極の心境になりました。長男も「無理して来なくても良いよ」とは言ってくれても、親としての心情が治まりません。
皮肉なモノで移動を決意した日が、ここ数日で最も寒い日?
人生とはこんなモンですよ、ね。手術で頑張った息子の頑張りに負ける親であってはいけませんよ、ね。老妻の体調も心配ではありますが、「行きたい」との意向を大事にしながら行って来ることにします。予定では数日間の滞在です。ブログが送れれば挑戦しますが、お約束は出来ません。ご了解願います。帰宅しましたら、ブログを再開いたします。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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