2013/07/13

『選挙の遊説カー』から聴き慣れない言葉が耳に届く

 

 酷暑(=「猛暑日」と言うらしい)がこんなに続くとは!!

 九州生まれの小生夫婦は、少々の暑さには負けない。自負し、豪語し続けていたが、35℃を超えるここ数日の気温の連続と、テレビやラジオから流れる「注意報と警報」が流石の盤石に鍛え上げられた(?)肉体にも不安が過り始めている()

 連日の「竜巻情報」の提供にも閉口する。気温が下がらないままに、雨戸を閉めて竜巻の襲来に備えるのであるから室温の高度は上がるばかりである。エアコン嫌いとなると室内温度の調整は扇風機と団扇である。意地を張っているつもりは毛頭ないが、あの冷気に対しては拒み続ける老体であるのでやむを得ない。

 注意報や警報が解除されると明るさの残る夕暮れに向かって雨戸を開ける。網戸から入ってくる涼風に自然環境の良さを実感する。目の前の栗畑を雉のつがいが歩くような大好きな緑地帯なのである。

 参議院選挙の論戦は、「国民の目線」とやらの言葉とは裏腹に庶民の生活と遊離するような党利党益のための演説ぶりが耳に届いている。これからの自国の行く末を案じるばかりの高齢者となってしまったようだ。

 今日の新聞で目に留まった記事は沢山あるが、その一つを紹介したい。

中高生の必需品になってしまっている携帯電話の存在感が、「学校の規則」を守ろうとする中学生の懸命な努力を空しく崩壊させようとする現状を、学校関係者はどう捉えるべきだろうか?
 

公衆電話を切り捨てないで

                 中学生 岡田 舞 (東京都 15)

 

私は自宅の最寄り駅に設置されている1台の公衆電話をよく使用する。私の学校は携帯電話が禁止されているので、学校帰りに特別な用事がある日は、親と連絡を取り合う。

 しかし、先日私か利用しようとした時、公衆電話は壊れていた。私は大変困った。この事態に気づく人もおらず、どうすることも出来なかつた。近くに他の公衆電話はなく、そこで初めて数の少なさを痛感した。

 最近は携帯電話が普及して、多くの人が所持しているため、公衆電話が使用される機会は少なくなっている。公衆電話を普段使わない人には、もはやそこにあることすら気づかないほど不要なものとなっているのではないか。し 私は、公衆電話は必要なものだと思う。それは携帯電話を所持していない人や忘れてしまった人などにとって利用価値があるからだ。少数派にしか役立たないものでも、切り捨てるのはやめてほしい。

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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