2013/07/08

「中学校の荒れ」と過ごした元・教員の眼に映ったモノ?


 

 どうしてこうなったんだ!

 彼らは何が不満で、その矛先をこっち(学校)に向けて来るんだ!

 保護者と話をしても、何かが噛みあわない。

 親も教員も必死だったのに結末は悲惨だった。(昭和50年代) 

 随分昔の出来事が老脳の走馬灯にはっきりと映し出された。それが今回の訪問校に足を入れた瞬間だった。生徒指導への指導助言が目的で学校から招請されたのではない。しかしながら、『昔取った杵柄』は30年間もの間、陽の目を見ずに潜ってはいても、その当時の力を持ち上げて来たことが証明である。

 学校長の案内を受けて、授業風景を見ながら忘れていた筈の中学校の授業風景が浮かび上がってきた。「この小学校の教員の苦労」は文章表現では伝えることができない。低学年の授業風景を垣間見ただけで、心が痛んだ。全国のどこの小学校を訪問しても、30年前とは比較にならないほどに幼児からの「生活の乱れ」を引き摺っている低学年の授業中に表出しているのを承知はしていた。

 「夜更かし・朝寝坊・朝食なし」の生活の乱れから来る倦怠感が小学1年生に顕著である。1時間目の授業で欠伸を連発する1年生には「ピカピカの」の代名詞が泣いてしまう。明らかに障害が認められる児童の数も増えている。昔は入学当時の倦怠感もだらし無さも学年進行と同時に自然消滅したモノだった。「学校教育の成果」として社会にも認知されていた。だから、「その内に」の合言葉で教育者集団は我慢強く指導が出来たのである。

 しかし、昨今の状況は違う。

 幼児のまま(躾け不十分)で入学して、そのまま成長し切れないで中学校に入学してしまう。これでは中学校の教員としては堪ったものではない。授業以前の問題なのである。

 学校長の言葉が印象的だった。「日々の本校の教員の努力で随分良くなりました。成立する授業が多くなったので、本腰を入れて授業研究に取り組みたい一心で角田先生を招請しました」と。「授業で積極的な生徒指導を!」という小生の教育理念をご理解いただいている学校長である。

 5~6年生の授業を観察するために教室入った。

 元・中学校教員の眼に映った光景に、「この先生たちは凄い!」と唸り声が飛び出しそうであった。『生徒指導』の理念で「授業を創る」ことができる授業者には、幾つかの条件が要求される。思いつくままに以下に述べると、

①子どもへの愛情②教育への情熱③積極的な自己鍛錬④包容力と協調性⑤揺るがない責任感、・・・と列挙に暇がないほどに浮かんでくる。その中の幾つもの条件を満たしている訪問校の教員には授業を創る雰囲気がある。安心して授業を観察してみた。    (つづく)

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自己紹介

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1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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