~雨が潤いの源~
数日間、ある新聞記事に注目が行った。
それは「秋葉原無差別殺傷事件」である。何が一番気になるのか?と問われれば「無差別」という文言である。相手は誰でも良い、という犯罪意識にはどうしても合点がいかない。人間関係がもつれ「恨み辛み」が特定の人物やグループに向かう精神状態は理解できる。理解するから犯罪に走ることを理解しているのではない。
内面に鬱積した憤懣の履け場を「誰でも良い」として刃を向けられたらまともに生きていけないではないか。電車内で携帯電話を注意したら、小生が降車する駅までずっと後から着いてきて「うざいんだよ!」と言葉を吐き捨てて走り去った若い女性の言動を思い出した。小生の「無差別」論理からすれば、これは許せることになりそうだ。我ながら頭の中の思考回路が是非の論争で錯綜してしまう。
実は、この秋葉原事件の起きた前日に小生は現場を訪れていた。
一日ずれていたら?テレビ画面を見ながら身の毛が弥立つ思いだった。無差別という「無関係な人間」が尊い一命を落とすことの不条理には憤りを隠せない。どうして?なぜ?そんな結論に達するのか。どうしても解せない。こんな希薄な人間社会になってしまったのも一朝一夕に表出する結末ではあるまい。
昨日からの雨は、今朝は本降り。日照りもあれば大雨もある。潤いをもたらす雨の存在が、ずっと暑かったこの時期にとっては慈雨である。人間の心の成長にも同じ事が言えるのではないか。犯罪者の心に降り注ぐ慈雨はないのだろうか。そんなやるせいない夏の雨の朝である。
歩禅とは、『安岡正篤 人生を拓く』(神渡良平 著 講談社+α新書)で拾った言霊です。千葉県で早朝ウォーキングを長年実践しておられる方の言葉として紹介されていました。沈思黙考の「坐禅」に呼応するものだそうです。ふと読み留まったのは我が愚脳にも大きな電撃が走ったからなのです。歩きながら自然界に身を委ね、自然界に畏敬の念を抱き、そして自然界に語りかけることのできる自分を見いだすこと。これを「歩禅」と利己的に理解しました。坐禅が苦手な私には「静かに座して己と語る」ことに替わるべく言葉として受容できる気になったのです。だから私には単なる言葉としてではなく、『言霊』(ことだま)となったのです。 平成16(2004)年10月20日 還暦に記す ~以降「散歩日記」を歩禅記として継続発信中~
自己紹介
- 角田明
- 1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。
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