2011/12/31

衝撃を受けないわけが無い!!


 ~ペットボトルのキャップが開かない!~
 この新聞記事を読みながら、妻の最近の愚痴が浮かんできた。
 未だ開けてあげられる夫は直ぐに手に取って簡単に開けてやる。雑巾がしっかり絞れない、との妻からヘルプサインが出ると絞ってやることぐらい簡単なこと。妻も歩禅のスピードが以前より遅くなっていることは気づき始めている。
 家の中で共に過ごすことが多くなったので妻の変化も掴める。決して老化が進んで心配で仕方が無いという状況ではない。介護のために郷里の九州で1年半ばかり移り住んだ日々の光景が浮かんでくる。それは、従兄の奥さんのセリフである。

 一挙に還暦を迎えるんじゃないよね。徐々に、確かに1年に1歳ずつ加齢しているのは重々承知しているんだけど、節目の年齢に達するとしみじみと体調の変化を感じるのよね。65歳になると、更に現実は厳しいモノがあるんよ。それがね、70歳を超えた瞬間から「こんな筈じゃないよ!」と叫びたくなるほど老化を感じてしまうからね。いつまでも若いつもりでいるから間違いが起きるんよ。年寄りの仲間入りはイヤだけど実態を正しく受け入れて生きている人が長生きしてると思うんよ。

 妻も彼女のセリフは覚えているようだ。
 今年の2月に「年金受給者」の仲間入りをした妻である。2年前に受給者になった夫は、手続きの煩わしさを知っている(=知恵)で全ての事務処理に当たった。それも「一気にこの歳になるんじゃない」との彼女の教えを意識していたからである。学歴が無いとの口癖の彼女から、学歴のある(?)我々夫婦が学ぶことが多い。学校では教わらない内容が多すぎるほど存在することの証明でもある。
 いつかは、いや、もう襲い掛かられている「老衰」の症状を真摯に受け止めなければなるまい。無理をしない対応策で「老衰と共に生きる」人生哲学を編み出さねばなるまい。大晦日の朝、静かな時間帯に「こんな事を考える」年齢になったことが、実は年齢相応だと考えると嬉しいのである。
 決して情熱や意欲が欠落し始めている訳ではない。小生のブログ読者諸兄には、今更述べることではないだろう。
 未曾有の大震災を体験した2011年を振り返ある。
 震災直後の4月11日に予定通りに転居に踏み切った。48年間も住み慣れた神奈川県茅ケ崎市を離れて、ここ茨城県土浦市に移り住んだ小生の決断を無謀とまで言及されたが、「それは違う」とここでも述べておこう。
 降って湧いたような転居話ではない。既に10年前から長男夫婦とは話し込んで来た「我が歴史」の流れである。その合致点がたまたま、東関東大震災と激突しただけのことである。
直ぐには老人にはならない。幾多の遍歴と共にしながら今日まで辿り着いている。そして、老脳には老脳なりの「眩しい程の明日の光」が差し込んで来ている。昨日のブログの発信者からも、全国の読者諸兄からも叱咤激励のメールが届いている。老化のスピードを弱める「栄養源」(=サプリメント)である。今朝も沢山のメールで元気を頂いている。
 この年齢なりの来年がある。
 お役に立たなくなったらそれなりの生き方もあるだろうから、その時点で考えるとしよう。従兄の嫁さんの言葉をしみじみ感じながら、さらに充実した2012年を「年齢なりの」人生哲学で、仕事(=たび)は続けたい。この熱い心を抑えるのに勝手に苦労をしている大晦日の朝である。

2011/12/30

素敵な『お歳暮』



 ~「冥利」という美酒(手紙)に酔いました~
 今秋訪問した小学校から贈り物が届いた。中身は夜の懇親会で舌鼓を打った美味である。その夜の光景が勝手に復元される。全国を巡業(笑)すると、その地の名産や特産物に巡り合う。旅の醍醐味でもある。だから止めれない?
冗談は論外としよう。
 贈り物の中に手紙が入っていた。荷物は妻に預けて小生の視線は手紙の内容に釘付けになってしまった(写真版・参照)。それは想定外の内容であったからである。こういう場合の礼状では「子どもたちが・・・」とか「教員の目から鱗が落ちた気分になりました・・・」等々美辞麗句が羅列されるのが常套である。しかし、この小学校の研究主任の「礼状の中身」は余りにも違い過ぎたのである。一読いただきたい。
 決して管理職の非難ではない。共に伸びて行くべきである管理職が、ややもすると他人事的発想で授業を観察する。それだけが職務と誤解している管理職が存在する。そういう校長に限って、自らの言い分や指導内容までも講師に「委託する」のである。ところが、この小学校では管理職がその後の態度で「自らの学び」を職員に示すことが出来たとのこと。この喜びは授業研究以前の「感激」となる。
こんな感動の「お手紙」を受け取る度に、(講師)『冥利』に酔うのである。そろそろ止めようかな、と脳裏が揺らぎ始めるとこの『冥利』がその思考回路に立ちはだかるのである。その繰り返しで退職後の8年間が過ぎてしまった。新年が開けると9年目の年がやって来る。
 そんな年の瀬に、「もう一度、この小学校に行ってみたくなっちゃいました」との熱きエネルギーが燃え滾ってくる老脳の異常性を我ながら驚いている朝である。

2011/12/29

いつもの『年の瀬』とはちと違う?


 ~環境の変化と心境~
 何かと気忙しい思いで過ごす「年の瀬」が、今回はちょっと違う。
新居と言う外的環境がそんな心情に迫っているのだろうか。いつものリズムで早起きして、「やるべきこと」(前夜の就寝時に考える)は7時までには全て終える日課は、ここ20年間は変わっていない。そのように確信している老脳が、それでもいつもの「年の瀬」とはちょっと違うような感じにさせられるのは何が原因だろうか。
 加齢が要因だと言及するには、まだ抵抗がある(笑)。
 昨日、小学生の孫二人を乗せて隣市・取手市に住む叔父宅に行った。助手席に妻、後部座席に二人の孫たちが陣取ってのドライブであった。はしゃぐ孫たち二人の会話で助手席の妻は笑い転げていた。九州の従兄たちや知人・友人から届いた野菜や果物をまとめて「お正月用」として叔父宅に届けるためであった。事情も説明して孫たちは同乗した。マンションの7階に住む叔父の部屋からは北に筑波山を背にして「牛久沼」(写真・左上)、南には冬の日差しに光を発しながら流れを見せる「小貝川」(写真・右下)がきれいに見下ろせる。孫たちの歓声が上がるほどだった。眼下を常磐線が走り去る光景もまた歓声の増量になったようだ。
 興奮を載せたまま車は帰路に着く。途中で昼食の所望があり駐車場に走り込む。希望のメニューで満腹になった二人は、さらにヒートアップして「漫才」紛いの対話へとエスカレートする。長男孫の発した言葉尻を捉えて祖父ちゃんから「考えるクイズ」を発信した。孫の級友が秋田県へ転校するという話題がきっかけであった。
 都道府県の「頭文字」一字だけを祖父ちゃんが発して、完成させる問題である。佐賀県・滋賀県・三重県・千葉県は「頭文字」の一文字だけが全てのヒントなのでかなり手こずる状態だったが、半分以上は解答が完成した。全部が完成する前に自宅に到着したほど集中した。サッカーをやっているという孫たちは、そのチーム名が都道府県名の名称当てに役立ったようで興味深くさえ感じた。
 こんな年の瀬を過ごしたことはなかった。
 つまり、今年の年の瀬が今までのそれと趣を異にする要因は「人的環境」の所為であることに気付いたのである。住居も地勢も変わったとしても、この年齢にもなると外的刺激からの動揺は無いのかもしれない。内的環境の変化、つまり関わり合う「人的」な質と量の変化の方が、影響が強いと実感した。

2011/12/28

「四字熟語」の深意

 ~「上意下達」の成立条件~
 新聞のトップ見出しが “東電の初動「誤り」”という朝刊。
東京電力福島第一原子力発電所の「(事故)当日」の事故調査・検証委員会の報告内容が掲載されている箇所は全てを読み込んだ。ふと「上意下達」(記事の中に引用されている)の深意について考え込んでしまった。

 上意下達とは、上位者の命令や指示、言葉などを下位者に伝えて実行させることを意味する。トップダウンもほぼ同様の意味を有している。上意下達は①上位者が発給する文書によって行われる場合と、②上位者の直接的な言葉によって行われる場合、③更に仲介者を媒介して行われる場合がある。(百科事典より)

 この記事(正真正銘の事実と認知すると)から読み取れるのは、海水注入の停止命令が(上位者から)発せられたにも関わらず、現場責任者の自己判断で注入を継続したという事実が判明する。つまり、上位者から(電話での)中止命令があったにも関わらず実行しなかったことになる。その時点から9か月の時間が流れた。そして自然災害に因る致命的な第二次災害が、今となれば本災害になってしまっている。 
 初動操作のミス?操作命令者の判断ミスと言うことなのか。
 新聞記事を読む限り、上意下達に即しなかった現場責任者の処遇はどうなるのか。なぜならば上意下達の意味は「戦略行為」の一つであるので、従わない限り効果や成果は齎さないのではないだろうか。
 現職時代に(このような「国益」に関わることではないが)、国~県~市~学校と上意下達(=文書による「通達」)の指示事項があったにも関わらず、小生はその指示に従わなかった。現職名は校長であった。行政からの注意や厳重指導を受けた。しかしながら、上意下達のレールに乗れない(細やかな)経営哲学が従うことに抵抗したようだった。従う、従わないということだけの問題であって死活問題にまで発展したことではなかったが、「上位者の責務」意識に信頼を寄せることが出来なかったからである。   
 上意下達という言語は組織の運用に関する重要な言葉である。
その深意は、命令や指示を発する上位者の資質に関することであることを意識しなければならないことではないだろうか。つまり、何でもかんでも「上位者」からの指示は次の下位者に伝える無責任さが本来のこの言葉が有する意義を割愛してしまうのではないかと愚直な小生(=下位者)は、今でも案じてしまう。教育界に従事する輩だからこそこんな反面教師的な発想をしてしまうのだろうか。少なくともこの言葉が成立するためには、「信頼される上位者」が育っていなければなるまい。退職者の傲慢な考え方であれば許されたし!

2011/12/27

「一枚の葉書」で考える



 ~全国の小学校で「英語の授業」をする~
 それは全てが先方からの依頼である。「昔取った杵柄」とは言え、対象が小学生となり、「教育の目的」に大差があることを認識すると請け負うには「ちっぽけな元・プロ」としての間違ったプライドまでがバリアとなってしまう。しかし、小学校では「藁にも縋る」思いでの依頼であるのがわかるので渋々、しかも勿体ぶって言い訳までが先行するほどの酷い状態で請けるのである。そんな老体に拍車をかけたのが愛知県教委の事業への参画招請であった。久しぶりの「教材研究」へ拍車がかかり、依頼された「地元」を活かすべく資料を探索し、教材化しながら『小学生が学びたくなる』英語の授業を探究した。30回ばかりの連続授業で度胸までつけていただいた。この経験値は表現できないほどの容量となった。関係者に感謝である。
 振り返れば現職の小学校長として自校の6年生には10単位の授業をするのが恒例となっていた。このことが土壌にはなっていたことは否定できない。しかし、自校と他校とでは授業前の「関係の確立」の背景が大きく違うではないか。授業の最大の条件は「学習者を理解している」ことであるのは持論でもある。と、すれば見ず知らずの「子どもたち」を相手に外国語の授業をするというのは無謀に近い。その授業を受けたばかりに「二度と学びたくない」とでもなったら責任の取りようがないではないか。しかも、教壇から遠ざかる時間は確実に増えている。授業のフィーリングが鈍くなっている。そんな臆病風邪はまさに向かい風になってしまう。
 そんな雑条件下でも授業をせざるを得ない。
 葉書の送り主は高知市の小学校の5年生の学級担任である。高知市内の他の小学校で授業をしているとの情報を得て直談判にて授業を依頼されたのだ。その心意気とそれを支える学校長の愛情に絆された小生は、高知弁の勧誘に載せられて美酒に酔って引き受けるという性癖(笑)が「安請け合い」をしてしまったのである。学級担任から、運動会で演じた組体操での合言葉が『だいじょうぶ だいじょうぶ』との情報を得た。その場の「だいじょうぶ だいじょうぶ」を英語では何と言えば良いのか、を突破口にして授業を構成して準備をして臨んだ。
 授業は失敗ばかり。
 この小学校でも例外ではなかった。しかし、外部の教育力を活かす学級経営力が功を奏して立派な感想文が届いた。その後の交信をしながら「授業づくりは学校づくり」という小生の経営理念の実践が行われている現状が垣間見えた。校長さんの「哲学を実践化する学校現場」として映って来た。たかがワンショットの英語の授業であっても活かし方では、学校も学級も、そして教員も大きく変容するのかもしれない。授業者冥利という嬉しさが激しい脈拍に乗って全身を温かく駆け巡った。最終章の交信がこの葉書の最後の小さな(追伸の)1行である。

     参考までに、小生から返信した葉書もご参照いただきたい。

2011/12/26

同音異義語シリーズ①


 ~「自立」と「自律」~
 写真版として搭載したのは『時に海を見よ』(渡辺憲司 著)の一部である。ここで著者が、親からも離れ、さまざまなことを遮断して物事を考え、自分の存在や自分と言う個の重さを感じて欲しい、と記している。見開き2ページだけを見ても「孤独をおそれるな」という若者へのメッセージが伝わってくる。このページの最後の行に注目したい。他人の目を気にし過ぎるあまり、自分の意志とは正反対の考えにも同調してしまい「いじめの輪姦」に身を落としてしまう若者世代への警告である。戦後の「民主教育」とやらはここまで他力本願の若者を育成するに至ったのだ。群れをなさないと不安になるような間違った孤独感を養ってしまったのである。孤独と孤立は違う。孤独の空間は寂しくもあり恐ろしさもある。しかし、少年から青年に至る時空で「孤独の醍醐味」を満喫(?)できた人間は、究極の難題に遭遇しても自力解決への懸命なあがきも可能ではないだろうか。
 世の中は扶助社会となった。素晴らしいことではあるが同時に感謝の気持ちも湧かない無感動な人間性を育てたとしたら乾燥社会ではないか。つまり、自立を育む社会ではない。自立することは、援助からわが身を切り離すことでしか育たない代物ではないだろう。言及すると、「親の支援」を親がどこでどのようにして切り離してあげるかの問題としか言いようがない。
 先だってラジオ講演で聴いた谷口浩美氏の言葉を借りよう。
 宮崎県で育った氏は地元有名校・駅伝部では超有名な選手として自立できたと確信して日体大に進学したそうだ。自立の次に立ちはだかったの「自律」だったと述懐していた。大学では高校時代のようにきめ細かな指導はもらえない。放牧状態の駅伝部だったらしい。国の親からもらう仕送り金がいつの間にか底をついてしまう。親には申し訳ないと思いつつも遣い込んでしまう。遊興費とまでは言わなくても食費も交際費も「自律心」の脆さにはどんどん食い込んでしまい中退を余儀なくされ故郷に戻って行った仲間を多く見たと話してくれた。貧乏な両親が借金を重ねて遠征合宿費を送ってくれているのを知っていた谷口氏には仲間の誘惑に踊るわけにはいかなかった。その分だけ孤独感を味わい孤立感に潰されそうであったが自立心を育ててくれた両親の顔を思い出しながら踏ん張ることが出来た。そこに「あらゆる欲望や誘惑に向かって自らが律する心」がなければ立派な大人になれない。氏の言葉には実感と言う体験が後押ししていて聴く耳を刺激してくれた。
 自立と自律の相関関係を考えてみれば、成熟しきれない大人社会がはっきり見えてくるではないか。自立できない子どもを育てる親には自律心はない。我が子を厳しく咎め、戒めながら本気の愛情で『突き放す』心こそ親にしかない自立心を育む大切な教育手法である。
学校教育もそうではないだろうか?甘い教員集団そのものが、「不毛な自立心」と「自律心の欠落」集団であるとすれば今後の我が国の教育に期待が持てなくなる。政治家集団をみても、派閥と言う群れから自立できない病状から「刹那主義」「短絡的決断」での活動に明け暮れる現実を視るにつけ我が国の将来が見えなくなってしまう。
 成長させなくてはならない時期に、成長させられる立派な(学歴や知性ではない)大人集団を作れなかった「贅沢・利便」社会の産出のツケは大きい。歴史上に汚点として残る「負の遺産」ではないだろうか。

2011/12/25

来年の「仕事」の準備を!!



 ~「読書で脳と心にスイッチオン」 

 届いた公開研究会案内(半分・写真版)を開いた瞬間に、片道50分を要する距離を毎日歩いて通学していた小学校の古ぼけた校舎を頃を思い出した。分校に通っていた2年間を終えて、3年生から本校に通い始めた少年には本校の校舎の中に「図書館」という部屋があったのが何故だか「眩しい存在感」となったのを記憶している。初めて入館したのは5年生になってからだった。驚きと感動は今でも忘れない。そこは「見たことの無い」夢のような空間だった。
 授業は何だったかは記憶していないが、帰り際に「好きな本を借りる」ことが出来ることを知らされた。指定された曜日の昼休みがその時間だった。初めて借りて帰った本が「次郎物語」。貪り読む少年の行動は、母や祖母には異様にでも映ったのだろうか。農家の手伝いをサボりながら「読書する息子」への冷たい視線は強まるばかりだった。そして、ついに6年生になったら「本を借りる事」への禁止命令が母から発せられることになってしまった。叔父が仲裁(?)に入って、借りて来ても良いが、家の手伝いをきちんとすることとなった。しかし、少年は「本の虫」に化していくばかりで母からの叱責は治まらなかった。ついに事件が起きた。少年が借りてきた2冊の本(野口英世物語・二宮金次郎物語)を、母がどぶに捨ててしまったのである。
 図書館との思い出はそこが始発点である。
 「学校図書館を活用した授業と読書指導」という研究を進めている広島市の小学校から、その成果を発表する公開研究会の全体会での「講演」の依頼があったのが9月であった。校長先生からの提案演題が『読書で脳と心にスイッチオン』というフレーズが示され、脳裏には小学校時代に「恋い焦がれた」1教室分しかないちっちゃな校内図書館を思い出した。つまり、当時の少年の「脳と心」にスイッチが入ったのが図書館だったことを懐かしく思い出させていただいた。
 図書館学習の研究など全くしたこともない素人が講演を請ける。それは無謀に近いが、「少年の脳と心」に火をつけてくれた母校の図書館に謝意を述べることの機会が与えられたと曲解しての受諾である。そろそろ、当日のレジュメを制作する時期になったようである。

2011/12/24

ラジオを聴きながら・・・(7)


 ~転んでも踏まれても立ち上がれ~
「こけちゃいました!」で有名になった谷口浩美です!
 会場かららしい集団の笑い声が耳に届き、起床モードになる。ここ土浦は、48年間住み慣れた湘南地方とは雲泥の差の寒さである。体内時計は寒暖の差はないようだ。目が覚める時刻は決まって3時40分であるのは未だに不明。妻の反対を押し切って購入した石油ストーブ(ファンヒーターではない)に点火するのが、ここ数日の寒波の朝の日課の始まりである。
 我が家のラジオは一晩中(就寝から起床まで)最小のボリュームで枕元で稼働している。今朝の「にっぽんの歌こころの歌」という番組は『宮崎県特集』らしく、大好きな宮崎民謡「刈干し切り唄」が地元の人の歌声で聞こえてきた。なぜか全身がシャキッとする。
 6畳間の和室は今朝も異常に寒い。しかし、小さな石油ストーブであっても火力が部屋を温めてくれる。妻は4時半には床を離れて台所に立つのが日課の始まり。小さな「離れ」の別邸でもエアコンが無いと堪える寒さであるが妻は朝食の支度に取り掛かる。小生も身支度をして立ち上がるが夏場とは時差があるいい加減さ。今朝は谷口浩美・元オリンピックのマラソンランナーの『あったかい語り口』に癒されつつ布団の中で聴き入る甘ったれ根性は妻とは違って我儘な性格である。聞こえてくる講演の内容に感動し、感激している内に立ち上がりたくなって飛び起きた。
 氏の「生きて来た人生を、1年・1ページにして何が起きたか」を書き込んでみるのが自己の人生を振り返るきっかけになる。こんな忠告が聴講者に向かって発せられた瞬間、我が老脳にもピリッとした『納得感』が過った。氏は51ページの人生ノートが顕在すると追加した。
 1944(昭和19)年から67年間の人生を進行中の小生には67ページのノートがあり、そこに「どんな事件や事故、出来事」が起こったのかを振り返ってみようと老脳にスイッチが入った。記憶にない幼少期のページも調べてみたくなった。
 氏の「この失敗があって」今日の自分がある。この言葉はずしっと来た。この失敗やあの哀しみ、思い出したくもない苦い思い出」が、今日の自分に脈々と生きていることを自覚させられた。72歳で他界されたらしい父親に息子として送った言葉は他言できないほどの重さだった。人様の息子さんの言葉であるが、「小生にも大事な苦言」として受け止めたいと妙に嬉しくなった早朝であった。

2011/12/23

寒波の中にホットなメール



 ~ ラストランに栄光あれ~
 この校長先生の、転勤後のどん底状態からの懸命な立ち直り方には脱帽した。


 勤務先の現場を覗いたわけでもないので当事者からの実情報告でしか判断は出来なかった。嘘をつくような性格ではないと直感できたので丸ごと受け入れることしか出来なかった。酷い症状を呈している学校現場を多く知っている。どのパターンに属するかも類別できた。しかし、現場を知らないと打開策を講じる(細やかでもアドバイスする)のにお先真っ暗であった。
 嘘のない実直なこのタイプの教育者は多い。逆に、信じられないほどの腹黒さと利己的な人間も多いのはどんな業界でも同じだろう。しかし、こと『学校』という一種独特なムードを醸し出す教育界には、私利私欲と出世欲とを「併せ着」(重ね着)しているような人種と出くわすと幻滅感で打ちのめされそうになる。悔しいかな、そんな現実と遭遇した経験値が老脳の中にも生きていた。この校長先生にはその観点からのアドバイスが出来たのではなかろうか。
 リーダー論が盛んに交わされる時代となった。
 小生が気になるのは「リーダーとしての資質」に言及されることである。資質の有無を論じられて満足に応えられる資質を有する人物など皆無に等しいと考えるからである。リーダーに「指導性」だけが要求されるとなるとその論議は不毛なモノになってしまう。なぜならば、本物のリーダーには、指導性だけではなくトータル的に見ても「寛容な人間性」が支柱にあると、小生は考えているからである。寛容性は、排他的ではないことが主要素になっていると考えられる。つまり、他者を受け入れ、認知して評価できる素養が期待されなければなるまい。
 追究するに、逆にリーダーをサポートする人材(複数が望ましい)の存在とその力量が「良いリーダーを育てる」要素になるということである。つまり、陰になり日向になりリーダーというポジションにある人材を支えるパワーの威力がとても重要になると考えているのである。この校長先生にはその「裏方さん」達の存在と威力が顕在したということである。それが、誰であるかは本人のみぞ知ることである。認識している証は「感謝です」と言う表現である。
 感謝すべき人材は校務にも存在していることは氏の学校のホームページ(今回のメール交信のきっかけともなった)のブログにも随所に観られている。この栄光の支柱であったと嬉しく思えるばかりである。退職する日を指折り数えて大過なく過ごそうという愚策は氏にはない。残された最後の時間も今までと同様に全力で走り抜けることを期待している。

2011/12/22

『昨日の記憶』は確かですか?

~「人名が思い出せない」のは苦悩の一つ~
 顔は思い出してもその人の名前が出てこないのは苦痛に近い。そんなことを数多く繰り返している内に「苦悩」だったのが「苦痛」に変わり、それが「諦め」に変色していることに気がつくと加齢の重さを痛感する。同年齢の仲間と談笑しつつ、そんな症状を確認できると何故かホッとするのは人情なのか。
 孫が離れのミニ書斎に勉強しにやって来る。想定外の質問を浴びせられ、「わかっている筈」の答えが出てこない。祖父としてのプライド??そんなモノはない。しかし、応えるべき答えが出てこないのは哀しい。たかが小学4年生の孫の質問ではないか、とわが身を奮い立たせるが現状は現状である。
 67歳を迎えた日に、この孫から「僕が大人になってお祖父ちゃんとお酒が飲めるように、元気で長生きしてね」と檄を飛ばされた。そこで、小生は呆ける脳みそを活性化する手段として、その翌日から「朝一番」の仕事を決めた。それは、パソコンに向かって「昨日の出来事」を時系列で書き上げることである。簡単そうで難しい。読者諸兄も一緒にチャレンジしませんか?
 小生のように「毎日サンデー」(=造語)になると、曜日によってリズムに特徴があった現職時代とは異なり、「毎日がほぼ同じことの繰り返し」になってしまうので『昨日の記憶』は脳外に飛び出してしまい残像すら消えてしまうようである(笑)。訓練として課しているので、その時点での記録やメモは残さないことにしていると、昨日の午前中が「真っ白」になっていることが多くなってしまった。
 老妻との歩禅の対話は、その欠落部分を舐めあう時間として有効である。
相手の記憶が途切れている部分は、不思議と自らの記憶に残っているのが可笑しい。逆も十分に成り立つので田圃道の途中で立ち止まって大声で笑ってしまう。他者が観たら『呆けた老夫婦』に見えるだろうな(笑)。
 そんな対話が済んでいると「昨日の記憶」の記録は実にスムーズなのである。冗談めいて、「この対話が消えたら一気に痴ほう症状が悪化するんだろうね」、と苦笑である。変化と刺激は、現職時代に「解放されたい拷問」でもあった。しかし、こうして毎日が義務と責任から解放されると自らの強い意識改善策を持たないととんでもないことになってしまいそうである。
 ご迷惑にならない程度で、「義務と責任」が伴う「変化と刺激」を求めて、来るべく平成24年も、請け負える「おしごと」に向かい合って行こうと心引き締めている師走の朝である。

2011/12/21

新聞記事を読んで・・・。



~常識はずれ?~
 そもそも「常識」を規定するための基準は何だろうか?記事の主人公は、誰が名づけたのか「市民ランナー」と言うらしい。市民ランナーと他のランナーはどこが違うのか?特称されるのだから、ランナーを規定するうえでは根拠になるのが「企業・会社」の組織に属し、専門のコーチや監督の指導を受けていることになるのだろうか。高校や大学で有名になったランナーは誘われたり望んだりして有能なコーチが在職している会社の職員として身分や生活も保障されながらその社名(=社命)を掛けて(=賭けて)、時としては自らの考えや展望を押し殺して練習と言う名の下で組織人と化すアスリートのことなのか。
 施設や設備を必要とする競技では個人負担では対応できないだろうが、何の投資も要らないマラソンランナーにとっては論外として選手が誕生しても良いと思い続けていた小生には、この記事のランナーには心底からエールを送っている。先だっての福岡国際マラソンでの終盤での悲壮な顔つきでのラストスパーの画面を追いながら解説者が「今までのマラソンの常識を覆した力走」という表現を何回も発した。思わず首を傾げてしまった。
 常識とは何だろう。35キロ地点からのラストスパートが常識外れと言われながらも、この選手は形相を変えて走り続けた。しかし、「限界かな」と応援者の心臓までバクバクさせながらも最後まで走り抜けてしまった。敗者となった大学ランナーとしても著名だった二人のランナーはそのスパートに追随できぬまま涙のゴールであった。決してこのランナーの走法にケチをつけているわけでもなければ、コーチの能力を訝っているわけでもない。
 常識はずれ?
 小生の学校経営にもこの言葉を多く浴びせられた。その度に「何を基準にして小生の学校経営手法が常識はずれなのか」と自問自答したものだった。こんなちっちゃな新聞記事からも『考えさせられる』人生勉強することも、常識はずれかな?こんな考え方で自己研鑽することが常識はずれを誕生させるのでは??
 有名人(基準は知らない)が結婚する。お相手は「一般人」と表現される。どうやらこの「一般」は「一般市民」という意味らしい。市民というのは「普通の人」の意味らしい。このランナーは、確かに普通の「学校事務」に携わる公務員である。普通の人が予想外の記録や勝利を勝ち取ると「異常者」になるのかな。つまり常識はずれとは、異常と評されるほど立派な業績を築き上げた褒め言葉のようである。こんな小さな記事から、自らを奮い起こしてくれるような結論に達することができるのである。この市民ランナーの常識はずれに大いに期待したい師走の早朝である。

2011/12/20

カレンダーの『始発点』は?

~現役時代を振り返りつつ・・~
 暦が新しくなる。
 こんなフレーズがありますよね。これって、「お正月から」という基点を是認しての表現?つまりカレンダーの始発点は、やはり正月・元旦(1月1日)なんでしょうね。大学を卒業してそのまま教員人生が社会生活の基盤になった小生は、「お正月」は4月1日だったような気が、今も失せません。若い教員時代は、新学期(4月)の暦の始まりは「新しい生徒との出会い」にその基点がありました。学級を丸ごと持ち上がった経験が2回ありましたが、それでも年度始めの学級開きの時間には『新鮮さ』は意識したものでした。
 職業上必携する「教務手帳」なる代物は、書き始まりは「4月の行事」と「年間授業計画」でしたので、この業界では4月がカレンダーの始発点であったことは否定できません。我が国における行政は、『年度』が4月になっています。9月や2月に始まる学校文化が世界に沢山存在することや、2月に「お正月」を祝う国もあるのですから始発点には文化の差異が生じるのでしょうね。
 退職して「年度」生活から遠ざかってみると、やはり始発点は「1月」のように感じるのです。家に貼ったり掛けたりするカレンダーも師走のうちに手に入れた時点ではカバーや表紙が付いています。それを取り去ると1月からのページになります。そして12月で全部が消えてしまいます。その繰り返しをしながら生活していると「お正月」の意識が高まるような気になっています。
 正当性を論じているのではありません。
 基盤となる生活からそれぞれののリズムが創りだされるということを考えを述べているだけです。皆さんのカレンダーの始発点意識はどうなっているのでしょうか?今日は今年最後の『鍼診療日』です。2011年(平成23年)は、3月の大震災に引き寄せられるかのように4月に、震災地に近い土地に転居しました。小生の人生史上、極めて大きな変動が起きたカレンダーとなりました。昨年まで毎週の定期便で通院した鍼診療所へも後半で月に2回ほど通えるようなカレンダーとなりました。壁に掛かっているカレンダーには9月からその予定も書きこまれています。新しいカレンダーは未だ壁には掛けていません。今日は来年の診療予約も確認して帰宅します。
 そろそろ、新しい始発点であるカレンダーに、色々な予定を書き込みたいと考えています。皆さんのカレンダーに記録する始発の出来事は何でしょうか?

2011/12/19

結局「手作り」の手帳にしました!

 ~革製・システム手帳の中身~
 毎年、中身だけその年に合わせて買い換えていました。
 そして5年も使っている愛着のあるシステム手帳です。近隣の文房具専門店が品数の不備な状態がわかりましたのでA5版の用紙を活用して、カレンダーもスケジュール書き込み用のページもオリジナルデザイン(笑)によるバインダー式の手作りをすることにしました。
 今日は朝からその案件で試作品の製作に老脳が疲れる程にチャレンジしてしまいました。手作りですから装丁デザインと出来上がりのギャップが随分大きいのです。苦笑してみたり、落胆したりしている内に冬の日差しはあっという間に夕暮れを連れてきてくれました。気が付いたら、当ブログも午前中には書き上げるはずがこんな時間になってしまいました。
 帰宅した孫たちが遊びに来た友人たちと楽しそうに庭先で遊んでいる声に「我に返る」ほどに集中していたのですが、「労作」も駄作に限りなく近い出来上がりになりそうなので、今日の作品は反故にして(明日は『鍼診療日』なので疲れた脳に充血を施して再度)、明後日に挑戦することに決めました。
 エクセルで創る手帳の中身。
 そのノウハウがお有りの読者がいらっしゃいましたら、高度なスキルによるアドバイスには対応出来かねますが、少々のヒントはいただけるだろうと考えています。よろしくお願いします。本日のほぼ終日にわたる取り組みも「徒労に空し」の状況下にあってもめげない小生は、やっぱり生来の能天気者ですね。今更わかったわけではありませんが、自意識の症状がはっきりしてきたという所でしょうか。
 夕暮れの冷え込みが強い北関東です。そろそろ、あったかい焼酎でも準備して老妻の手作り「酒の肴」でも頂くとしましょう。ちっちゃな書斎のワークデスクの上に失敗した印刷済みの用紙が目立つように存在しています。無駄なことをしているのかな?年賀状の作成で酷使したプリンターのインクもそろそろ心配です(笑)。

2011/12/18

わが師走の風物詩(4)・・≪続≫



 ~教師冥利に浸りつつ・・~


 今年も卒業生との再会が出来ました。

 中学校の教員として初めて卒業生を出したクラスの生徒たち。と言っても、もう50歳を超えているという卒業生です。久しぶりに再会した面々もあれば、毎年楽しみにして参加する者もいて年中行事になっているミニ同窓会です。顔ぶれによって話題も微妙に変化するのが、また楽しみであるのです。

 今回は、小生の転居と「同居する」生活リズムと祖父母が関わる孫の人間性の構築にまで話題が展開してしまって、僅か8ヶ月の同居生活から見える「孫育て」への祖父母の関わり方の重要性に言及することになってしまいました。既に「お祖母ちゃん」になっている卒業生もいましたので、その観点からの同質意見もあり、これからの自らに及んでくる立場論からの意見もあり、師弟の関係を超えて話に花が咲いて、今年の再会もあっという間の時間となってしまいました。小生の遠距離への帰路を心配して7時過ぎには宴の中締めをしてくれました。

 余韻と一緒に東海道線で東京へ一旦戻ることにしました。乗り換えて上野駅に着いたのですが、都合の良い電車の時刻まで30分以上もあり、退屈しのぎと胃袋の洗浄(?)も兼ねて入り慣れない喫茶店で珍しくコーヒー等を飲んでから常磐線の車中の人となりました。気がついたら取手駅でした。再度の睡魔を避けるべく単行本を広げ大好きな西村京太郎氏の推理小説を読みました。「上野駅13番線ホーム」という題名が、内容は、乗換駅での事件発生からの展開なので架空とは言え現場が空想の中ではないのが酔い覚ましには最適な本になってくれているようでした。旅の伴は、硬い本ばかりではありませんよ。特に氏の本はベストフレンドの1つであることは間違いありません(笑)。

 さほど酔わずに帰った老夫に老妻は当てが外れたような顔で迎えてくれました。教え子たちとの再会は当時を走馬灯に蘇らっせてくれるのでしょう。成長した教え子たちとの話題が「祖父母力」という言語を使用しても飽きない時間帯が築けたことがアルコールの力以外のパワーでも「心酔い」に誘ってくれるのでしょう。有難いことです。これで「忘年会」も打ち止めです。今年も『良い年』でありました。

 卒業生たちの家族にも「良い新年」が訪れることを祈りつつ、逢瀬に感謝したいと思います。

2011/12/17

わが師走の風物詩(4)

~50歳を超えた卒業生との再会~
 7年前に「学年同窓会」が開かれました。神奈川県藤沢市で勤務した中学校の卒業生によるものでした。偶然にも小生の『還暦』を迎えた年でもありました。7学級あった大規模な中学校でした。小生は26歳の「子連れ」新採用教員でした。つまり、中学校の教員として初めて出会った中学生でした。高校教員から中学校へ異動になった時点でのカルチャーショックはそれなりのモノがあったような気がしましたが、結果的には「最初の教え子」と言う新鮮さが未熟な教員を育ててくれたようです。拡大の同窓会も醍醐味があるが、こじんまりと毎年「学級だけのミニ」の同窓会ができたら、との要望があったようです。肝いり役を引き受けた幹事さん達がその後毎年準備をしてくれているのです。
 数年前に「50歳の大台に乗りました」と、幹事の発声でミニ同窓会(学級だけ)が始まりました。
 近況報告で「お祖父ちゃん・お祖母ちゃん」になっているとの自己紹介に年齢差以上の接近感に驚きました。そんな集団から今年も開催通知が届きました。小生の転居を考慮して開始時刻を若干早めてくれる心遣いに動揺しました。昨年までと違い、今回は茨城県から東京を超えて藤沢市まで行かねばなりません。少々の躊躇があったことも事実です。乗り換えて移動する時間が約3時間かかるので終了時刻から逆算しても深夜に近くなること、と寒冷地(現住所)との絡みで考えてしまったのも事実です。
 ところが、昨日あたりから「再会への興奮」が老体に鞭でも打ったかのように「行く気十分」の若い頃の担任教員に戻ってしまいました(笑)。今朝もラジオが「この冬一番」の冷え込みと報じています。確かに足元が冷え込んでいます。しかし、出席することへの躊躇は全くありません。「病は気から」と言う諺を証明するかのようで苦笑してしまいます。
 そこで、8分間ほど足を延ばして、茅ヶ崎の旧宅まで行ってくることにしました。
 ミニ同窓会開始時刻には、茅ヶ崎から藤沢まで移動することにしてスケジュールを立てました。旧宅を放置したままなので、知り合いの工務店と打ち合わせをして旧宅の今後の処置方法の助言を戴くために午前中に訪問することにしました。
 今夜の同窓会の報告は明日以降にいたしましょう。寒さに向かって行ってまいります!!

2011/12/16

師走の風物詩(3)

~12月15日は『オレオレ詐欺』最悪の日~
 ラジオが伝えた「最悪の日」。なぜ?
 早朝のラジオで得る情報でしみじみ考えさせられることが多い。「俺の携帯電話番号が変わったから」「交通事故を起こして示談になって」等々の電話が親や祖父母に掛かってきたら「怪しい」と思わなくてはいけません!とアラームを発するアナウンサーの声を耳にしながらどうしても合点がいかないのはなぜだろうか。この手口が振り込め詐欺の常套手段らしい。わが子やわが孫と声が違うように感じた当該者が聞き直すと「風邪をひいている」と堂々と応えるらしい。それでその場の疑問は解決するようだ。この点でも合点がいかない。しかも、殆どが男声である。男の子の教育が間違っている??
 なぜ、ひっかかる?
 家族の人間関係すらも希薄になってしまったからなのか。ただそれだけでこの詐欺に引っかかってしまうのか。言うなりになってしまう親子関係・祖父母と孫の関係(わが身を引き締める)の長い経緯がそこには存在しているのではないだろうか。
 その後のラジオでは面白い情報があった。
 毎月15日なると、小学生(児童)たちが銀行の周りに張り付くところがあるというではないか。それは予防策の一つとして実施されるらしくかなりの効果を上げていると言うので思わず苦笑してしまった。苦笑しながらも、「子どもたちの目」が銀行にやってくるお年寄りに元気と勇気を与えるらしいとの証言を聴きながら、また考え込んでしまう。孫の数が少なくなった時代では、親以上に「甘さ」を露呈してしまう祖父母力の減退を感じてしまった。そして今、祖父母として存在するわが身の重要性を噛みしめている。
 ダメなものはダメ。良いことは良い。
 是非善悪をきちんと教え込まないと、孫たちが成長して立派な大人になれないではないか。クリスマスプレゼントやらお年玉とやらの掛け替えのない(子供にとって)イベントが年末年始に目白押しである。金額の高低を競わせるような親では子供は育たない。高額を授与する祖父母が価値があるような親の視線があるようではその子ども達の行く末は案じられる。貧乏のどん底は避けたいのは人情である。しかし、そのやむを得ない状況下で「耐える・堪える」心情を育むことが子育ての基礎基本ではないだろうか。
 師走の風物詩として取り上げるには「哀し過ぎる」最悪の日である。15日は年金の支給日であることもラジオの情報で再確認した。小生は正真正銘の年金受給者である。我が子やわが孫たちが、「お祖父ちゃん、あるいはお父さん・・・・・なのでお金が必要になって・・・」と、のたまうモノなら、この祖父ちゃんのカミナリが落ちるだろう。甘ったれるな!自分でしでかした失敗は自分の力で補え!!と。
 こんな祖父ちゃんは孫にとっては可愛くないお祖父ちゃんなんだろうな!(笑)。
 年賀状の受付が始まる師走の時期となった。大昔から存在する「年賀状」の意味をじっくり考えながら日ごろの「人間関係」の成り立ちに感謝するのも良いかも知れない。そんな16日の朝である。

2011/12/15

師走の風物詩(2)

~「源泉徴収票」が届く・・・~
 給与所得者、つまりサラリーマンにとっては「身を切られるような説明書」である源泉徴収票を具に確認して検討することは殆どないのではないだろうか。小生だけのことではないと確信している。読者の皆さんで現役の給与所得者の方はいかがでしょうか? 
 源泉徴収票が郵送されてきました。裏面に次のようなコメントが記されていました。
 
 源泉徴収は確定申告で必要となります。紛失されないよう大切に保管してください。確定申告は、平成24年2月16日(木)から平成24年3月15日(木)までです。
 
 現職時代には、事務職員から1枚の確定申告票が配布されました。住所氏名を直筆で書き込んで印鑑を押して、生命保険等の書類を添付して提出するだけで要務は完了していました。それでも、職場では締め切りを護らない輩が事務職員を困らせていました。30数年間をその要務を「重要な手続き」とは意識せずに過ごしたサラリーマン(小生)は、退職後が大変です。自戒を含めて読者諸兄に心情を記述しているのです。老輩の「戯言・ぼやき」と軽視せずに意識を高めることを強調しておきますよ。
 師走の風が、『事務処理』=確定申告準備という要務を運んできます。
 来年の申告には、妻も今年から年金所得者になりましたので扶養者としての申告をする必要が生じました。妻の源泉徴収票もこの師走の風に乗って運ばれてくることでしょう。
 その場に至って「現実と直面」しない限りわからないことばかりです。市教委に勤務医していた頃、ある時期から市役所の駐車場に警備員が配備され車の出入りの整理している姿を見ても、「今日は何か大きな催しでもあるのかねぇ~」と同僚と他愛もない会話をしていた能天気者が、今となれば恥ずかしくもなります。市民の皆さんが確定申告のために庁舎に押し寄せていたわけだったのです。退職すると、その一列に身を置くことになります。
 税務担当の職員に、「虚偽の申告」を探し出すかのように錯覚してしまう尋問(?)に不愉快な思いもします。しかし、担当者は確認をしてくれているだけなのです。教員時代に生徒指導をしていた自分の姿を税務担当者の言葉に置き換えてしまうのです。不快感を味わう自省の時間にもなってしまうのが何回接しても同じ感情になります。貧しい人間性に失笑です。
 暗い話題になってしまいましたか?ゴメンなさい。決して悪気はありません。「まだ、先のこと」という意識への軽いジャブであるとやんわりと受け止めてくださいませ(笑)。

2011/12/14

方向音痴は「地図帳」音痴?

~「清掃センタ」ーに辿り着くまでの苦悩~
 引っ越し荷物が8か月経っても片付かない。
 妻の愚痴の音量もどんどん高まる一方である。それは、実家となったこの離れが、嫁いだ娘たちのお正月の帰省先になることが絡んでいるようだ。つまり、孫連れの宿泊客があれば、唯でも狭い離れの老人宅は片づけをしないと寝る場所の確保が難しいからであろう。事情は重々承知しつつも放置してきたツケが回ってきた。早朝から片づけたゴミ(笑)を、地域のごみ収集場所に置くには多すぎるらしく市の清掃センターに「持ち込み」処理で始末したいとの要望である。市役所の開業時刻を待って電話をして相談しつつセンターの所在地を確認した。
 お得意(?)の地図帳を片手に聞き込んだ目印と所在地のメモと照合し、ネットの地図も参考にしながら自信満々に、捨てるべきお宝物を軽自動車に積み込んで出発した。
 地図通りに運転した(笑)。
 しかし、全く見当違いの場所らしい風景に迷い込んでしまった。やっぱり、方向音痴は健在だった。同乗した妻は呆れ返って言葉が無いようだった。それは先週の土曜日の千葉県佐倉市からの帰路、長女が教えてくれた通りに運転したつもりが全く反対の方向に進んでいた時点の苦悩が脳裏から離れていないことの証でもあった。
 途中のコンビニで説明を受け、何とか目的地に到着できた。
 余裕で昼食時間には帰宅するつもりが大幅にずれてしまった、呆れている妻の苦情はもう無い。それでも自己嫌悪に陥らないところが性分なのだろうか。車社会を代表するような当地である。何とか、すんなり目的地に到達できるようなセンス(笑)を獲得せねばなるまい。時間のロスを最も嫌う人生を歩いて来たと自負する男が、このザマではどうしようもない。
 師走のつくば市は未だ道路が混んでなかったのが不幸中の幸いであった。
 自他ともに認める「方向音痴」第一人者である。帰宅して母親から報告を受けた長男がボソッと、「ナビを付けてやろうかな」と嫁に囁いたのが聞こえた。どうやら老人特性の「地獄耳」だけは健全なようである(笑)。読者のみなさん、同情は不要です。エールだけを待っていますよ!

2011/12/13

師走の風物詩(1)

~カレンダーと手帳~
 人生僅か70年足らず。
 カレンダーと手帳を意識したのは何歳ぐらいだったでしょうね。読者の皆さんはどうですか?教員と言う稼業では4月から『年間計画』に従って全てが回転しました。その運営方法や手法についての考えを述べるのはこの場では無理ですので省きますが、「計画する」という理念とカレンダーと手帳は密接な関係があるような気がします。「カレンダー通り」という慣用的表現を押し付けられた現役時代も懐かしく思い出します。この観点から判断すると、カレンダーは共有・共用の代物ですね。
 一方、手帳となるとプライバシーな内容が記述される代物だと考えても異論はないでしょう。皆さんの手帳の購入歴はいかがでしょうか?教員時代には「教務手帳」という硬い手帳がありました。児童生徒の個人情報が満載される異状な手帳です。紛失してしまったら大変なことになってしまいます。現在では、電子手帳なるパソコンを能力を持ち運びできる手帳もあるようですから保管の問題が、従来の手帳の世界とは比較にならないほどに重要になりますね。先生方は十分にお気を付け願いたいですね。
 そんな歴史を紐解くだけでも、カレンダーと手帳の変遷ぶりは計り知れません。
 ただ、どんな活用方法を考えようと、カレンダーと手帳の入手時期は大きくは変動していません。つまり、師走のこの時期になると今でも、文房具店や書店の店頭には夥しい数量の逸品がお目見えします。心機一転??そのためにもカレンダーや手帳の威力を借りる発想も有り得ることが認知していただけることでしょう。
 小生は、現役を退いてから『手作り』の手帳とカレンダーを作り始めました。
 それでも、この8年間で大きな変動も確認できます。その変遷に人生の変容を感じ取れます。皆さんの情報も教えてください。
 知人が経営する会社から今年もカレンダーが届き始めました。そこにも会社独特のプライバシーが覗けて楽しみです。ところで、以前に比べるとカレンダー配布も分量が激減していませんか?商店街の小さなお店でもこの時期に買い物するとレジでカレンダーがもらえましたよね。ところが、今?
 身勝手な心情の変化をカレンダーと手帳からも覗えます。「こんなに沢山カレンダーを貰ってどうするんだよ」と嘯いたわが人生の傲慢さを痛感する、2011年の『師走の朝』でございます(笑)。

2011/12/12

「漬け物」が上手になったね!

~白菜の漬物は大好物~
 近所の農家から一輪車いっぱいの「旬の野菜」をいただいたようだ。
 母屋から嫁が何回かに分けて離れの台所に運んでくる。白菜・大根・ほうれん草等々、この地にある葉物野菜もあり、狭い台所いっぱいになるほどの量である。数週間前に同じ農家の方から白菜を戴いたらしい。食卓に上がった「お漬物」に食欲をそそられて美味しく食することが出来た。「美味いね!」と連発する夫に妻は応える。「歳取ったのよね」と。茅ヶ崎市に住んでいる時も野菜は良くいただいた。当然ながら白菜も貰っていたように記憶している。塩梅??という日本語の深意をくみ取れるのが漬け物のようだ。塩加減の難しさに妻は苦労したが、お世辞にも美味いとは言えなかった。
 昔の村の様子が浮かぶ。大根漬けの味がその家によって異なると祖母が話したことを思いだす。それぞれの「漬け方」があるようだ。近所のおばあさんが漬けられた大根の漬物をいただいて家族中が「美味しい」と舌鼓を打ったことも浮かんできた。漬け物が得意でなかった母親は少々肩身が狭かったのではないかと、この歳になると優しく思い出すことが出来る。日本の食文化なのだろうか。この漬け物と言う食品が発する独特な匂いや食感は親しい外国人の友人には敬遠される。
 引っ越した住まいが、畑の隣に位置する。
 孫の友人のお祖母ちゃんも野菜を運んでくださる。有難く旬を戴ける幸せに、妻の「白菜漬け」が彩りを添えてくれる。どうしたんだろうか??白菜の漬物が実に美味になっているではないか。褒めれば褒める程「歳とったのよね!」と複雑な返答が繰り返され、褒めるのも躊躇してしまう(笑)。
 どうしてなんだろう?「漬け物上手」と「若い奥様」との互換性がない?
 妻の加齢を諸手を挙げて喜んでいることは無いが、漬け物が急に上手くなった妻の器量はやっぱり加齢の為せる技なのだろうか?この相関関係は何とも言えない。しかし、大好きな「白菜」の美味しい漬け物が食べられるようになったことを至福に感じつつ感謝することにしましょう!!

2011/12/11

21枚の「葉書」

~喪中葉書を戴いています~
 毎年、年賀状を書き始める頃までに喪中の葉書が届きます。
 3年前に小生も発送しました。それぞれの「思い」が込められている葉書に目を通しながら、卒業生の一人から届いた「思い」に心が曇ってしまいました。「二月に夫(〇〇)が48歳で永眠しました・・・・」との文字に早過ぎる人生の終わりを、卒業生はどんな思いで見送ったのだろうかと考えると辛くなってしまったのです。彼女は実母との別れもまだ中学生の時(小生が担任)だったことを考える人生の絵巻物が微妙に、人それぞれに異なっていることを実感したのです。
 尊敬して(させていただいた)いた上司の奥様から届いた葉書にも思いを馳せました。
 教員と言う身分で勤務した市教委で「教育長」として、厳しく且つ丹念にご指導いただいた当時の職場の風景が蘇ってきたのです。活気ある職場づくりにご支援いただいた「一言一言」が浮かんできます。忘れ得ぬ名文句(名言)は、新春教育講演会(1月21日・東京/浅草)で思い出として紐解きながら披露しようと考えています。成長しきれない『大人社会が生み出す負の再生産』の根拠に、この大先輩の名言を使わせていただきたいと企画しています。神奈川への里帰りで、また一か所「墓参り」が増えました。
 そんな思いが脳裏を駆け巡る師走の日曜日です。
 昨日は当ブログの書き込みをサボってしまいました。申し訳ありません。千葉県佐倉市に住む長女宅に車で行ってみたいと目論んでいたのを実行しました。往きは2時間でほぼ予定通りだったのですが、帰路を長女が示してくれた「地図帳」を頼りにして自宅に向かった筈が、全く違う場所を走っていることに気が付いて進路変更を繰り返している内に何と3時間以上も運転してしまったのです(笑)。疲れ切っての帰宅になってしまいました。心配した嫁から車中に電話がなるやら、老夫婦は若干のパニック状態になって疲労困憊の状態で帰着しました。ブログに楽しい旅の様子など書き込む余裕もなくダウンでございました(笑)。それでも、今朝は元気なお目覚めですので能天気な性格はご健在のようですよ!!
 そろそろ、真剣に「年賀状の作成」に取り掛かりましょうかね。読者の皆さんの進捗状況をお知らせください。

2011/12/09

早朝のラジオを聴きながら苦笑

~年寄りに必要な「教養」と「教育」・・~
 午前4時半の小さな「離れ」小屋から老夫婦の笑い声。
 認知症の相棒のとんでもない言動に介護者が思わず大声で笑う。その声に誘われて当事者まで笑い出す(認知症の親を介護したが大声で本人が笑ったことは無かったが・・・)。そんな状況にでもなったのかと、読者の皆さんはご想像なさることでしょう。
 ところが(笑)、まだ我が老夫婦にはどちらにもその症状はありません。自身が認知症を認知しないのがその症状の始まりでしょうから、この断言も弱いモノなのかもしれませね。今朝の話題はその観点に拘るものでもありません。
 ラジオから流れた千葉大の元教授の発言が早朝の老夫婦の大笑いを招いてくれました。
 氏の提唱される『楽老人生のススメ』の、老いを楽しむための最大要素は「教養と教育」と断言されたからです。わが耳を欹てながら夫婦の視線がぶつかった直後の解釈で判明しました。老人になって人生を楽しむ(氏の「楽老」)ための基本条件として、①「今日(する事)がある」②「今日行く所がある」かどうか、の2点を考えているとの説明が続いたのです。「きょう・よう」「きょう・いく」との語呂合わせに思わず納得して(笑)吹きだしてしまったのです。
 夫「それなら大丈夫だよ」と言えば妻「私だって大丈夫ですよ」と言い合って大声になる笑い声を産んだという訳です。行く所が無い!する事もない!!となるのも時間の問題だよ、と発した夫の言葉が更に納得した妻の笑い声になって狭い部屋中に木霊してしまいました。
 時刻は未だ午前5時前でした。
 母屋の嫁が起床するまでの時刻までには時間もありました。そんな時間設定もあり大声が出てしまったことでしょう(笑)。笑い声が治まった小さな離れの、未だ開けていない雨戸の外からは雨の降る音が聞こえるほど静かになっています。きっと冷たい雨の一日になるのでしょうか。やっぱり湘南の雨の日と「寒さ」が違うような気がします、健康管理をしっかりして風邪などひかないようにしたいと心に呼びかけて、今日も「すること」がある老人ですので元気な一日を過ごそうとスタートしました。

2011/12/08

これで、また『危険物』に・・・・。

~『肥後守』の運命も~
 やっぱり短命でした。
 埼玉県三郷市で少年が逮捕され持参物の中に「刃物」が大量に発見されたようである。昨日、臨時要請訪問のために訪れた小学校でも下校時に「緊急事態」との情報で集団下校にするとの慌ただしい動きがあった。千葉県に端を発した通り魔的な犯行が茨城県でも発生したらしい。模倣犯と表現されるらしいが、どうも心理(犯罪)が理解できない。
 先日の新聞記事(ブログ登載)で、地域ぐるみで取り組まれている協力者の落胆は大きいだろう。なぜならば、また「刃物持参禁止」らしき表現で子供たちから「危ないモノ」は遠ざけられてしまうからである。危ないこともその本質を体験しない限り痛みがわからない。苦痛を避けるために工夫と言う知恵が芽生えるのである。鉛筆削りに使った肥後守という折りたたみナイフは、時として竹を割って竹とんぼも作って遊ぶ工夫もした。出来上がったものを「商品」として購入する現代とは、「手作り」の工夫が温もりを子供たちに提供する過程から人間性形成の温度差が違う。
 故郷の九州でも冬は寒かった。
 5キロもある通学路を歩くと途中から背中に汗が出る。田圃で火をつけている農家の人が、汗をかいた子供に声を掛けてくれる。そして、汗を拭き取ってもらって暖を取ってから歩き出す。風邪をひかない知恵を教えてもらった。当時の子供にはその知恵はわからないが、大人になると身体の仕組みがわかり「生活の知恵(=予防)」に気づくのである。時として、焼きあがった芋を掌に載せてもらって「熱い!」を連呼しながら、何故か小走りになって、あっという間に登校した。「急いで学校へ行け!」などと言われなくても走って登校したのである。大人の立派な知恵であった。
 ナイフも火も、間違えは危険物である。
 危険だから子供を火から遠ざけ、理科の実験でもマッチが擦れない子供を産み出す。仏壇の蝋燭も文明の利器でスイッチオンで点火できる。利便性が追究され素晴らしい利器が生み出されることには異存は無いが、次世代~次々世代へと脈打つ「人類の生命連鎖」を考えると気が重くなる。
 時は、また「悪の連鎖反応」に振り回される。
 それに振り回されおののく現代生活が、またその中から何かを喪失してしまう!心痛する朝である。

2011/12/07

地図を「読む」力が不足している?

~4歳違いの兄は得意教科が「地理」でした~
 劣等感で過ごした兄の後塵はやはり「先の見えない」人生でございました(笑)。
 地図帳と電車時刻表を「人生の友」としていると豪語していた次兄の話はとても楽しかった。しかし、何か訊かれると一気に奈落の底に突き落とされた瞬間を今日は思い出してしまった。今日は、当方のHPのスケジュールに挿入する時間も無く、県内からの訪問要請に応じた学校訪問でした。
 今日の行程は、「すべて自分で」が誇りなのです。
 自宅から学校のある都市まで、車で2時間弱だと先住者の長男から指導を受けていました。12時半までに来校するようにとの依頼に応じて10時40分に自宅を車で出発しました。実は、この行程は妻と一緒に下見をしていたのですがあの日から、随分時間を経ているので車内には「地図帳」を持参しました。
 信号が「赤」になる度に地図帳と首ったけの走行でありました。「地図を見る」楽しみは子供の頃から全く無い小生は「方向音痴」でも有名なのです。出発しようとしている夫を見送る妻は、「だいじょうぶ?」との声を掛けたのです。今更、不安だとは応えられない。そんな心配を乗せて出発しましたがノーミス(笑)で目的地に到着できたのです。地図を読解する力は無いのですが読解できました(笑)。
 そして、たまたま、参観したのが4年生の社会科の授業で「私たちの茨城県」という単元でした。
 地図に興味のないまま成長して(笑)、高齢者になった小生にとって授業を見る観点は「苦手な子ども」の目線だったのです。「生い立ちは隠せないよ」と、帰路の独り車中では、得意だった次兄が話し相手となりました。
 教員になった人類は、比較的に「優秀な学習成績」獲得者が多いような気がしないでもありません。苦労せずに「優秀だった」人種には、学びに縁遠い軍団の苦しさが分からないのではないかと案じたことも多くありました。そこに、授業を通しての「学びの支点」があるような気がしたからです。
 他界した次兄の、異常なほどの(笑)「地図帳」への興味に、末弟の小生は劣等感を抱いた日々なのです。そんな光景を思い出しながら帰宅しました。Nと書いてあれば「北」と覚えた方向音痴も、無事に自宅に辿りつきました。「授業の成立」についての本質を考えさせられた半日でした。感謝。

2011/12/06

少年の日の思い出

 ~鉛筆を研いで見せると・・~

 小学校4年生になる孫から「昔の生活」という単元(?)での学習支援のために学校に来て話してほしいとの要求がありましたが、その日は以前から請けている講演があり対応できませんでした。申し訳ないと思いつつ、近所の同級生数名を対象にしてミニ講座を開きました。老妻の旧家(熊本県八代市)から『蚊帳』を運んできていたことを思いだして実物を引き摺りだして部屋に張って見せました。驚いた孫軍団は、これが何のために使われていたのかわからないのです。当然名称もわかりません。しかし、中に入った軍団から歓声の連続でした。折しも、「夏休み」中の自宅ショーですので興奮も収まりません。そして、蚊帳という生活用具の用途を説明しました。真剣にメモを取りながら感心する孫の友人たちを確認すると老妻と二人で「こちらが興奮したね」と苦笑いをしたほどでした。
 蚊帳を畳んで今度は、大事に持っていた折り畳み式のナイフを取り出しました。読者のみなさんでもこの「昔の道具」を使用したことのない人が多いのではないかと思いますが、いかがでしょうか?

 この話題は我が家の今夏のことでした。

 孫の社会科の勉強で波及した祖父ちゃん祖母ちゃんの「懐古」授業でした。この写真で名前がわからない方は、新聞記事の見出しの文字をお読みください。小生の少年時代に必携だった生活道具がこの「肥後守」というナイフです。護身用??とんでもない!!生活用具でありました。使用頻度の高かったのは、『鉛筆削り』だったのですよ。

 孫たちの前で、『昔取った杵柄』張りに、鉛筆を削って見せました。感動と興味が4年生の男児たちには当然のように湧き起こりました。「やりたい」「研いでみたい」との要望で4人とも懸命に取り組みましたが、全く巧く研ぐことができないのです。その結果(笑)、お祖父ちゃんて凄い!!と言う感動の褒め言葉を頂戴してしまったのです。

 この「肥後守」が昨日の新聞記事で取り上げられました。

 孫と一緒に新聞記事を読みながら、彼は今夏の出来事を思い出したようですが、小生は遠い日々となってしまった「少年の日」を思い出してしまいました。このナイフは多目的使用が可能な「万能」なものでしたので「少年たちの宝物」的存在でもありました。殺傷するような野暮な使用方法等眼中にはありませんでした。社会で事件が起きるたびに制約や禁止の風潮が今でも続いているのが残念です。

 危険だから?怪我をするから?と想定内での大人たちの着想で、子供たちから本当の危険との勝負が取り上げられる時代が続いています。そんな孫たちの将来が心配になっている、『昔の少年』のボヤキでした。 

2011/12/05

ホームページのアップが遅れているようです!

 ~新春の江戸・下町散策のご案内~
 例年は、この講座は静岡県熱海市で開催していました。途中の1回だけは中止になりましたが、もう10回目となりました。ちがさき『響の会』事務局の熱意に頭が下がります。
 この4月に小生が茨城県に転居しました。
 静岡県までの会場がかなり遠くなりましたので、講師を請ける当方では辞退しようと思っていました。ところが、事務局での配慮(笑)で、常磐線で駆け付けることのできる下町・浅草の地に会場を設定しての開催を提案してくれました。
 お断りする理由もなく、お引き受けして第10回目の記念すべき講演会として出講いたします。既に案内の葉書が届いている方もあるのではないかと考えられますが、ホームページでのアップが遅くなっているようでもありますので、このコーナーでもご紹介すべきと判断しました。
 この欄で不明瞭な点がございましたら、当方のPCアドレス(chts415@jcom.home.ne.jp) にメールの送信をお願いします。こちらからこの案内を添付して送信いたします。
 この講演会は、教員だけを対象にしたものではございません。どなたでもご参加できますのでご遠慮なくご来場ください。
 会場は来春早々に開業する「東京スカイツリー」が散策できる場所にあります。浅草の「お正月気分」も十分に残っている時期でもあります。浅草観光も兼ねて会場まで足をお運びください。例年は宿泊できるホテルが講演会場でしたので、「宿泊」も申し込み時点で事務局が取り扱ってくれていましたが、今回はレンタルの会議場だそうですので「宿泊」は、参加者のご予定に従ってご自身での確保をお願いします。
 隅田川の川面を渡る風もまだまだ冷たく感じる頃です。身の引き締まる思いも含めて、新春の出発を東京でお迎えいただくようご案内申し上げます。

二つの大きな研究会

~神奈川県横須賀市から広島市まで移動~
 30日から始まった今年最後の業務を終えました。
 新幹線の駅で表現すれば、新横浜駅から広島駅の間を移動する日程でした。のぞみ号を使うと二つの駅は4時間で結ばれます。新幹線も開業当時に比べれば長足の進歩を呈し、かなりの速度に達しているようですが、乗客にとってはやはり静座する時間としては、「軽い拷問」(笑)になります。そこで、今回は名古屋駅で途中下車をすることを思いつきました。宿泊して翌日の広島への移動は半分の時間ですので決して拷問にはなりません。
 広島での日程は二つ目(30日に続いて)の研究会での講演が入っていました。
 横須賀市の小学校での講演と同様に責任重大な時間を担うのですから精神的な疲労度はかなりのモノになります。講演の評価は、「内容と時間」の整合性のようです。どんなに内容が素晴らしくても時間を無視されて延長されたのでは聴講者の満足感が減少するからでしょう。その兼ね合いが講師にとっては難題であるのです。まして、この時期の会場となる学校の体育館は自然冷蔵庫になります。足元が冷えてくると脳への充血どころではありません。現職教員時代には聴講者としての学びがあるからです。
 講演の評価はともかくとしても、今年最後の「業務」としての請負は終わりました。疲労困憊??ではありませんが、少なくとも以前と比べれば全身の疲労度は増していることは事実です。それもそうでしょうね。講演活動の開始年齢から8歳も加齢しているのです。
 請けることも億劫になるような加齢がくれば、この稼業にも終止符を打つことになるでしょうが、今朝、『腰湯』をしながら強行スケジュールを思い出しながらも、「まだ、やろうかな?」と思う気持ちになっているのが嬉しいような複雑な心境でもあります。
 関係者各位のお心遣いに感謝するばかりです。
 そんな時間帯に今朝一番の電話でした。県外の市教委から来年度の講座への出講依頼の電話が入りました。何だか「背中を押して」いただいたような気分でもあります。

2011/11/30

明日から『師走』という朝

 ~歩禅の道で撮った「花」~
 名前がわかりません。
 かなり丈の高い花ですが、花の大きさにも驚きつつその数の多さには、夫婦で立ち止まってしまいました。何と言う花なんでしょうか?生まれてこの方、「花(華)のある人生」を歩んでいない小生は、とんと花とのご縁も無く興味も深くないので知らない花の「素敵な存在」に気づき始めたのが昨今のことです。こうしてデジカメの餌食にしながらも解明もしていないのが現状でもあります。
 今日で11月も終わり、明日から師走。
 そんな朝、旅支度も済んでデジカメ写真館を覗きながら11月の道路で見つけたこの写真(花)の名前が気になってしまいました。以前、酔芙蓉の花を上掲してくだらない人生観を記述しました。それは青春の淡い恋心にも似たような表現になってしまったのでしょうか。読者の方から「詳細を・・」との要望メールをいただいてドキッとしてしまいました(笑)。深意はございません。読者の皆さんにも、草木や花にはそれぞれの思い出とドラマがおありだと想像しています。
 ここは、自然が多分に残っている新天地です。
 そろそろ、県外までの仕事に終止符を打つ時期になるでしょう。そんな時期に、こうした自然美を満喫できる環境に生活母体をおけることはこの上ない幸せなことです。見渡す限りの田畑の緑は、転居したばかりの今年は「目の保養」までには至りませんでした。しかし、来季はきっと嬉々として、その緑の中で『歩禅』の距離を延ばすことになることを確信しています。
 今日から、今年最後の大掛かりな仕事で出講します。準備段階でも「もう、良いや」との投げやりな精神状態にならない現状に安堵しつつ、内面での「盛り上がり」を嬉しく思える朝です。行ってまいります!!

2011/11/29

歩禅記(53)


 ~こんな夕暮れの『筑波山』が視野に・・~

 最初にお断りしておきますが、この写真は本日の撮影ではありません。数日前のスナップです。この日の気温が今日よりも低かったように思います。今日は、「暑くもなく寒くもなく」との気象予報官の言葉をそのままお借りして表現しても、「仰る通り」の天候でした。昨夜の予報では今日は「所によっては雨」と言うことでしたので、出勤する嫁は洗濯物を干さずにいたようですが、陽射しを見て妻がベランダに干したほどです。

 こんな夕暮れを、風も冷たくない状態で田んぼのど真ん中を歩けることは正に至福の時間であります。筑波山は富士山と違って「至近距離で」声を掛けると返答してくれそうな親近感があり心和む思いになり良き歩禅の友となりつつあります。

 明日から、今年(2011年)最後の、長期の出講です。この講演活動(と周囲は表現しています)を始めた7年前には5~6泊、つまり1週間の滞在での講演を行ったものでした。しかし、いかに若いとは言え既にその時点でも『還暦』は過ぎていましたので、意識と身体のアンバランスでほぼ1カ月ほど休養せざるを得ないどん底の生活に陥りました。身体が覚えていくと「無理の限界」が少しずつではありますがわかって来るようです。今では、最長でも3泊が限界であることもわかってきました。

 4日間の旅の荷物づくりも大変です。冬物の量は宅配便の箱選びから苦労します(苦労するのは誰??)。苦労するのは妻です(笑)。その協力を得て歩禅に出かける前に宿泊ホテルに発送することもできました。妻の協力に感謝することは忘れてはいません。

 この風景は、独り歩禅のコースの丁度中間点です。折り返すのはもう少し歩を進めてから大通りに出たところです。大通りには妻が必ず立ち寄るこの地の農協直営のお店です。新鮮な野菜を買い求めるために夫婦ともリュックサックを背負って歩禅に出向くことも多くなりました。大根や白菜等を少し多めに購入する時は、愛車・湘南ナンバー軽自動車で駆け付けます。リュックで賄いきれる時は二人で分担して背負って帰るのです。

 ところで、読者の皆さんに申し上げるのはお門違いですが、小生の今の心境は、放射能汚染の問題が早く解決してもらえないだろうか、ということです。当地は代表的な農業県だそうです。地元民の焦燥感は言うに言えぬモノなのでしょう。このコースの脇に、「稲藁の保管倉庫」があります。機械でしっかり結ばれて出荷を待つ藁にまで汚染の影響があるようです。何だか哀しくなりますね。立ち話をする農家の方々の口々から「風評」の話題が、やっぱり、この地でさえ飛び出すのです。苦渋の言葉のように聞こえて胸もいたくなります。 

2011/11/28

『イチオシBOOKS』を考える

~毎月3冊の推薦本~
 小生のHPにはイチオシBOOKSというコーナーがあります。
 これは、ホームページを創っていただいた(管理人さんは今も同じ)時点からこの掲載は続いています。そろそろ300冊を超える頃だろうと思います。きっかけは『響の会』のセミナー会場で必ず数冊の本を紹介していますが、それをホームページに載せて欲しいという要望があったからでした。
 小生は、読書そのものを、趣味のジャンルに入れることも抵抗があるほどの偏屈さを持ち合わせている変わり者です。子供のころから「これを読んで感想文を書いて提出しなさい」の指示には悉く抵抗し、「意地でも読まない」と頑張った結果、担任の先生の激怒に遭遇したこともありました。
 本は自分で探す。探して、読みたくなったら「買って」私物化する。
 それを、時を経て再度あるいは再再度読み返す。そして、自分の考えに変容があると妙な充実感を覚えるという、ホントに変わり者の小中学生時代だったと記憶が蘇ります。貧乏な農家の倅には、自分の金で本を買う、と言うのが「将来の夢」でもあったのです。
 高校を卒業して上京しました。
 大学生時代に家庭教師をさせていただいた御家との出会いは劇的でした。その町の町制が引かれた初代の町長さんが、家庭教師として指導した中学生のお祖父ちゃんであったことでした。お祖父ちゃんの書斎としてお使いになったという部屋で勉強を教えるのです。十畳間ぐらいの洋風の書斎の壁という壁は隙間もなく書物で覆われていました。目に入る書物の全てが、高校時代までに習った人物に関わる書物だったり、文学史を賑わした一流作家の名著だったり、図書館でも見たことのないような百科事典もたくさんありました。
 家庭教師として向かうより、『書斎の威厳』に浸ることの満足感でいっぱいでした。3年間の家庭教師が終わるころには、合間で盗み読みした本が十冊は超えていたでしょう(内緒)。運よく、下の御嬢さんの家庭教師も仰せつかりましたので若干の延長期間も満喫できました。その後も、「読みたい本」をお借りしに伺っては夕食までご馳走になるダブルな至福感を享受できました。
 誰にも指示されたり強制されたりすることなく「読書する」醍醐味を体得できた素晴らしい大学生時代でした。ご要望に応じてイチオシBOOKSを上掲してはいますが、書評は書いていません。イチオシBOOKSとは、こんなモン読んでみても良いじゃん?!でも保証はありませんぞ。推奨するほどの価値のないモノもあるかもしれません(著者には失礼!!)。読んでみて面白ければ十分です。現時点では面白くなくても購入して棚に置いておけば、後ほど「こんなに面白かったっけ」という価値観の変貌に喜びを感じるようになるものです。
 そんな無責任なコーナーが小生のHPにあります。遡ればかなりの書籍数になります。取り分け、学校の教員と言う特殊な仕事に就いている種族の皆さんには「読書自体」がイチオシです(笑)。

2011/11/27

出版社が主催するセミナーに出席

~出版に関わった人のトークの魅力~
 取り分け、本の装丁に関わったデザイナーの発言はいつ聞いても面白い。
 今回は親しくお付き合いさせていただいている長野県小布施町で出版業を営む知人の会社で出版された書籍の披露記念パーティーも兼ねた「セミナー」に出席した。8年前からのお付き合いだが、個人で開業した小さな「町の出版社」が、大東京のど真ん中でこのような立派な集いを開催できるまでに成長された光景には妙に感動してしまった。
 当の出版本に関しては、「関心度」は低かったが、東京に進出し始めた彼の偉業に敬意を表して参加費を添えて申し込んだのである。
 装丁デザイナーの弁がとても印象的だった。
 聴くに値する人生哲学を受け止められ、心地よい夜風に吹かれて帰途に着いた時点で思わず呟いてしまった。「来てよかった」、と。またそんな風に思えたのも嬉しかった。プロとは?の会場からの質問に対して、装丁師の答えが心を揺さぶった。「プロとは、次の仕事がくること」だそうだ。しっかり、仕事をしないと発注者は満足しないし喜ばない。仕事とは相手を喜ばせることであり、喜んでもらえない仕事は単なる作業である、と。喜んでもらえれば「次の仕事の注文が来る」と言うのである。
 書籍の表題だけでは「読書欲も購入欲」も湧かないが、こうして関係者が集い、「仕事をした」実績を本音で表現する時間を共有するとちょっと観点も変わってきたように思えた。
 帰路の常磐線の中で、改めて話題の本を読み返した。
 3時間のセミナーの濃度が測れたような気分になった。先入観と思い違いで読後感との温度差も痛感しながら凡庸な老脳の持ち主として恥じ入ってしまった。しかし、素敵な数時間を過ごせた余韻は帰宅するまで消え失せはしなかった。そのことだけでもホッとした。
 直帰してこのセミナーの感想を興奮気味に語る老人もまんざら捨てたもんじゃないと苦笑した。不思議に思ったのは、興奮していたにもかかわらずいつも以上に眠りに落ちるのが早かったことである。

2011/11/26

at the eleventh hour !!

~電車の中で考えたこと・・・~
 研究会の指導に出向いた小学校からの帰路の電車でこんな英語が浮かんできた。
 これは高校時代に憧れの英語教師から教わった言葉である。これは退職される前の、いわゆる「最後の授業」の時間に板書された英語であった。何故か、脳裏から消えることなく残っている。
 師は日本語訳をされなかった。この言葉の意味と示唆する内容全てを英語で話されたのである。未熟な高校3年生の小生には正確な深意はわからなかったが朧気に、師が伝えようとされた意味は理解できたと今でも思っている。
 昨日の電車の中でこの言葉が何故か、浮かんできた。
 そして老脳という一部分枯れている脳味噌にも。師のお教えが充血しながら広がっていくエネルギーのようなモノを感じ取った。それは、この小学校に通い始めて2年間の歳月の重さとも重なったのである。この小学校では今月の30日が研究発表の本番である。残り数日間しか与えられない剣が峰に差し掛かってしまっている。誰にも言えない『土壇場』の喘ぎは当事者しかわからない苦しさであろう。そんな重い雰囲気を察して、指導者としての助言は、また難しい。しかし、土壇場の喘ぎを共有する視点でアドバイスれば受け入れることは容易であると考えている。何もしていないような素振りの中にも当事者の一人一人としては土壇場感に追い込まれているはずである。
 本番を想定して指導助言をした。
 大した内容ではないが、彼らは真剣なまなざしで受け止めていた。後が無い「土俵際」まで追い詰められた時点で力を発揮するのは、「無駄な努力」しかない。無駄な努力をしていなければ火事場の馬鹿力など発揮できない。教育は「無駄な努力」の積み重ねにしか建立できない。即効性を要求する指導には大きな欠陥があるかもしれない。遅行性で十分である。遅行性には無駄な努力が似合う。
 今朝、先方の校長先生から興奮の電話を頂戴した。
 指導者(小生)の帰校後の、指導を受けた集団の豹変ぶりの報告であった。校長先生も感激されたようである。「やればできるじゃん」とは仰らなかったが、本番直前になって目が吊り上がるほどに真剣な眼差しで準備に取り掛かった姿を想像しながら、偶然にも昨日の車中で手帳にメモした内容との合致に苦笑してしまった。彼らの無駄な努力は存在していた、とほくそ笑んでしまった。
 小生の人生には「取り越し苦労」という文字はない。
 彼らの真剣な行為が、本番で実らなくても良い。まだまだ続く教員稼業のどこかで「花が咲き実がなる」時がやってくると確信している。その時点での見極めは困難であるが、それはそれで良い!!

2011/11/25

広域・地震発生注意報!!!

~出講日は4時前に起床~
 風呂のスイッチを入れて小さな書斎に戻る。
 パソコンを起ち上げてメールチェックする時間がいつもより45分は早い。着信が少なかったのでその1通に返信メールを送信し終えた。受信の内容が「先日の茨城県地震のお見舞い」だったので、お礼を述べつつ、『いつでも・どこでも』起こりうる地震についての見解を添えた内容にしたばかりだった。ラジオが広島・島根地方に地震発生の情報を知らせてくれた。また??震度3のエリアに「広島市安佐北区」との地名を聞き取りながら通いなれた小学校を思い出した。
 腰湯を終えて、豊橋特産の「次郎柿」に舌鼓を打っていると、今度はまたラジオから地震発生情報が流れた。今度は東海地方だと言うではないか。広島と東海地方は「出講地域ベスト5」に入るエリアである。ラジオに耳を傾けていた妻も、「行く所ばかりですね」と反応した。
 こうなると開き直りの人生観が頭を持ち上げてくる(笑)。
 どこに居ても自然現象には絶対に勝てない。邪心と憶測で自らの歩みを緩めたり怖気づいたりしても意味が無いじゃないか。天災は忘れなくてもやって来る!(寺田寅彦先生、ゴメンなさい)そんな思いが脳裏を充たしてしまった。考えてみれば、東日本大震災(3/11)の一か月後の4月11日に、無謀な転居を実行した張本人は小生ではないか。引っ越し荷物がクレーンで引き上げられて宙づりになったままで酷い余震に見舞われたのである。前途多難??妻も怯えたであろうが強引に引っ越しを敢行した。転居しても数カ月は身体全体が揺れているような錯覚を感じる程の余震の数だった。そのことを思えば、慣れてしまうとその中で工夫出来ることも多くなるモノである。生活の知恵、と言うのかな?
 広島・島根や鳥取、あるいは東海にお住いの皆さんの恐怖感は察します。実体験からしか生まれない工夫を編み出しながら自らの人生・開拓精神で前進するしか術は有りませんよね。
 能天気な爺さん発想で失礼しました。今日は横須賀市に臨時・出講です。準備を始めましょう。

2011/11/24

年賀状を買って来ました!!

~どんなデザインにしようかなぁ?~
 現役時代は休日を利用して「第一次締切日」ぎりぎりに仕上げて郵便局の指定場所に投函した。
 今は、毎日がサンデー。時間はたっぷりあるが『年賀状を作成する』意欲に欠けるのか、退職して数年間は途中で「父母の喪中」と重複したこともあり制作への情熱が削がれたこともあった。しかし、今回は「転居のご挨拶」という任務が課されているので手抜きは出来ない。郵便局に行った。11月1日に発売されて20日間以上も経っているが「売り切れ」の年賀状は無いようである。
 手書きの年賀状。
 温かみも人柄も十分に伝わってくる代物である。しかし、パソコンと言う利器の恩恵を考えると、ついつい『オール手書き』という年賀状はここ数年来完成したことが無い。決して自慢にはならないが枚数を量産するためには、「住所録」はそれに関わるソフトの力を借りることになってしまうのが避けられない。
 明日は神奈川県横須賀市に、「飛び込み出講要請」に応えるべく朝から移動することになった。「走る書斎」の時間を年賀状の草案づくりに使おうと考えている。
 種類としては3種類だろうか?
 卒業生・同業者・諸先輩と親戚縁者と分類するのが常套手段である。当方から投函する枚数より、届いた年賀状への返信が毎年の主流である。今回は、締切日以降に投函された年賀状の転送時間が気にならない訳でもないが、返信用年賀状の作成に掛かる時間は通常の年度とは違うことだろう。返信が遅くなってしまうことは申し訳ない気もするがどうしようもない。
 いずれにしても「自分なりの誠意」で年に1回の『ご挨拶状』を投函することにします。

2011/11/23

『年賀状』のことをすっかり忘れていました!

~年賀状と「わが人生観」~
 発売とほぼ同時に売り切れていた年賀状の社会情勢が年々変化している。
 メールと言う現代利器の影響なのでしょうか?皆さんはどう考えていますか?そして、もう年賀状の準備は始まりましたでしょうか?小生は、気が付いてみればまだ購入すら済んでいないのです。時勢が変わったと他人事のように述べていますが、時勢の中に生きている自らの意識も変容していることなのでしょうか。
 元日の朝。
 郵便屋さんの自転車(小生の少年時代は・・・)の音がすると真っ先に飛び出して受け取りに出たものでした。兄や姉にしか届かない年賀状は「オトナの証」のように見えて、年賀状が届くような大人になりたいと思ったこともありました。成長して中学生にもなると家族で購入した年賀状を数枚だけもらえるようになりました。厳選した宛先も、いつの間にか「胸をときめかせる」瞬間となり誰にも内緒の年賀状を書いて投函したものでした。その返事がとうとう届かず青春のハートが傷ついた時代もありました。年賀状の投函締切(元旦配達)を意識して夜遅くまで兄や姉が必死で書いていたのも記憶に残っています。
 故郷を離れて学生生活を過ごしました。元旦の何よりの楽しみは故郷からの年賀状でした。思いがけない友人(?)からの年賀状を大事にして、同居していた兄にわからないように隠したことも今となればただただ懐かしい「年賀状の思い出」となっています。
 ところで、今年の年賀状準備は?
 今日は郵便局がお休みなので明日にでも購入することにしましょうか。今年は、多くの年賀状が旧住所宛てにに届くでしょうから、「住所変更のお知らせ」を添えて返信することも社会的常識(笑)でしょう。転居のお知らせをしていない先輩諸兄や知人・友人にはこの機会を利して転居のご挨拶も考えて事前投函することが当然であろうと考えています。
 現役時代は700枚を超えた年賀状が届きました。返事を書くだけで1週間を要したものでした。そんな「年賀状の思い出」も、日本人として生まれた者の幸せだったのでしょう。儀礼とは思わなくなってきました。1年に1回ぐらいは近況のご報告をしてお世話になった感謝の意を添えたいと考えるようになってしまいました(笑)。

2011/11/22

移動中は全く感知せず

~全く分からないままに運転~
 茨城県下の地震発生は、二人の孫を車に乗せてショッピングモールに向かっていた時刻だったようです。
 息子は休日勤務で出勤して、読めは長男孫を連れて「地域子供会」の廃品回収の手伝いに出かけました。祖父母の下に二人の孫が置き去り(笑)になってしまいました。妻は、友人宅にお礼の品物を送りたいとの予定があるらしく、郊外にある大型スーパーに行きたいとの要望があったので孫も乗せて出発したのです。
 緊急地震速報の異常な音は、転居後もイヤと言うほど耳に届いていました。異様な緊張感と恐怖心を煽るような音でもありましたが、「無いよりまし」な通報音であることも実感していました。いつの間にか聞くことも無く忘れかけていました。と言うより、今回はラジオをつけていないでの運転中でしたので着信もできなかったようでした。モールに着いて直ぐに妻の携帯電話が鳴りました。横浜に住む次女からのコールでした。「えっ、感じなかった」との妻の返答を耳にしながらも緊急事態を予想だにしなかったのですが、その後、小生の携帯電話にも立て続けにコールが入り、「大丈夫ですか?」の連呼に事の大きさを感じたのです。
 ただ、ショッピングセンター全体にも異常な緊張感などの光景も感じなかったので鈍感になってしまったようです。帰宅してテレビを観て日立市(茨城県北部)を中心とした震度5強の地震が発生した様子を確認して、その時点での行動を振り返りながらゾッとしてしまいました。
 全く関知しないままに運転していることの怖さを知りました。運転中のラジオ視聴は、ひょっとすると命綱なのかも知れないと痛感した時間にもなりました。
 ご心配戴いた皆さん、ありがとうございました。

2011/11/21

夕暮れの『独り歩禅』

~見渡す限りの田園地帯~
 下の孫だけが家に居るので妻を同伴しての歩禅は不可能であった。
 農協直営店での「里芋」購入を依頼され、歩禅のコースを設定して独り歩禅に出かけた。茅ヶ崎市に住んでいる時もそうであったが、車の往来が激しい道路は歩き辛いので避けてコースを選んだものだった。当地に転居しても同じではあるが、コース選択の煩わしさは殆ど無い。数分もかからずに『田園地帯』に到着できるからである。大好きなスポットである。
 稲刈りも済んで今や、見渡す限り「休耕田」状態である。1ヶ月前ぐらいまでは籾殻を焼く煙も棚引く風景も見られた。農作業の終盤の光景には精神の落ち着きどころがあって大好きである。叔父や母が田んぼで仕事をしていたあの光景とオーバーラップしてくるところに郷愁もあって好きなのかもしれない。そして、最も好きな要因は農作業をしておられる農家の方たちが散歩人にも声がかかるところである。
 昨日の夕暮れ歩禅でも、肥料をまいておられた高齢の農家の方から、「寒くなったね」と気安く声を掛けられた。戸惑うことも無く「風が冷たいですね」と返答をすることができた。気温も下がり北風が冷たくなっている田園のど真ん中であっても「心の通う」対話が出来ると心内から温かくなって寒さを暫し忘れ足取りも軽やかになるものである。
 直営店はこの田園コースの中にある。
 妻の要望である「里芋」を2袋購入した。支払金額は200円也。高い方を買おうとした小生に農家のご夫人らしい店当番の方に、「キズあり」商品を勧められ「味は同じですよ」のお墨付きをいただいて意気揚々と帰路に着いた。妻の喜ぶ顔がチラついたので速度の早まる歩禅の帰路となった。
 この田園地帯からは、夕暮れに筑波山が見えるのであるが昨日は見えなかった。茅ヶ崎では富士山であったがここでは筑波山である。農作業の天気予報になる「山々」の存在を少年時代の思い出と一緒に思い出す。少年時代は、縁側から見えたのは雲仙・普賢岳であった。
 そんな懐古を楽しめるのも広い田園風景のお蔭である。

2011/11/20

初冬の『嵐』に歓迎された里帰り



 ~立派過ぎる「次世代人」との出会い~

 愚息より1歳年下だと判明した瞬間、親父の視線で講師を見詰め続けた2時間だった。

 素晴らしい学歴に驚嘆した訳ではない。氏の自己紹介から『育ち』の良さを感じたのである。祖母・父母の話題から「人間性の育成」を垣間見る思いで聞き入ってしまった。大学で研究した専門分野を生かして祖父が創設された会社の三代目の後継者として乗り出した氏の若さに似合わない「将来考回路」にはただただ感服するばかりであった。

 昨年の秋季講座にも40歳の講師を招請した。

 彼の人生哲学にも感動したが、違った分野の経営哲学に「新世紀の会社経営」への頼もしさを実感できた。次世代への期待感が高くなったことに安堵できたのは何よりの収穫でもあった。若い世代への期待を勝手に喪失させては申し訳なく思える程でもあった。この経営哲学を多くの教員に聞かせてみたい、と無理な(笑)願いを抱いてしまったのは小生にとっては珍事である。

 それにしても、初冬の嵐には参った!

 第二の故郷への里帰りにしては手荒い歓迎であった。懇親会会場から1分の茅ヶ崎駅であるのにびしょ濡れになるほどの暴風雨であった。しかしながら、若い世代の講師の「前途洋々たる」話題の展開に時間の経つのも忘れて聞き入ってしまった余韻は、触発された老脳には初冬の寒さなど感じないほどの熱エネルギーを増産させていたのだろう。寒さなど全く感じない興奮度であったようである。

 主宰する『響の会』が全国にも支部活動として展開されているが、広島『響の会』でも教育関係者以外の講師を招聘して講座を開いている。ここ数年、聴講者も増えて盛り上がりを感じる運営に更なる期待が高まる思いである。教育者が身内だけの同業者感覚で「研究会・研修会」を展開すると、傷のなめ合いから超えることのできない指導で終わってしまいがちである。異業種の厳しさを体感できる時間の特設は必要であると確信している。

 息子の頑張りを体感した満足感は今朝のこの時間まで持続している。嬉しい朝である。講師の今後の奮闘を心底から応援したい。ちがさき『響の会』には、今度は会社見学をして現場での氏の講義を聴いてみることをお勧めしたいものである。



2011/11/19

『決め手』のポイントを考えさせる

 ~相撲のテレビ観戦で学ぶ~
 「協議の結果、“取り直し”と決定しました。」

 相撲の世界では軍配は勝敗を決する合図の一つであるが、微妙な展開になったら審判の判断を仰ぐのがこの業界の掟であるようだ。6日目の土俵でその現場に遭遇した。幼い頃、「もうすぐお正月」という感傷を運んでくれたのが大相撲の地方巡業(興行)であった。師走の風が冷たくなった空気の中で裸の力士が汗だくになって取り組む姿は少年時代の年末の風物詩だった。九州場所が終わると九州管内での巡業でファンを喜ばせてくれたのである。その思い出が今でも相撲ファンとしてのテレビ観戦の引導となっているようだ。
 観戦を楽しみながらも、長い間、腑に落ちない部分があった。
 それは、審判を仰がれた4人の審判員を代表しての審判長の説明である。スポーツ選手は、「無口で喋り下手で」は大目に見られ、それも魅力の一つのポイントとしても価値があるようだ。それには異存は無い。しかし、言わなくても良い言葉を連ね過ぎて肝心なピントがボケてしまう審判長の説明には、業界としての「企業努力」を要望したいほどだった。ところが昨日のその場面で、視聴者がすっきりするような説明がなされたのは貴乃花審判部長の上記(青い文字の部分)の、僅かこれだけの文章(説明)であった。マイクを預かり、ただこれだけで責務を果たして「取り直し」への興奮を観客に繋ぐべく最上の手法である。
 余計なことを言うな!
 先人や先輩からも良く注意された。最近では「説明義務」(アカウンタビリティ)とやらが横行(笑)していて、長々と理由から経過まで説明することを「良し」とする風潮になってしまっている。教育界に身を投じていた日々にも、この「大義名分」に振り回され無駄なエネルギーを遣った苦い思い出が蘇ってくる。相撲の激戦は終わった。どちらかが勝ったら相手が負けである。行司さんは土俵の上で懸命な即決を余儀なくされる。軍配には「取り直し」の上げ方はないようだ。とすれば東か西に向かって「勝者」を指示さざるを得まい。業界では間違った軍配は「差し違え」と言うそうだ。差し違えの少ない行司が出世することは否定できまい。しかし、土俵の上の力士も懸命だが行司さんたちも必死である。その極致の世界で判定を覆せるのが審判員の元・力士さん達である。感情論や人情論を、この場で移入した説明は無用ではないか。力士だけでなく行司にも失礼ではないか。

 ただ今の勝負についてご説明申し上げます。行事軍配は〇〇の勝利とみて東(西)方に上がりましたが、〇〇審判から●●の方が先に土俵を割っているので・・・・・・と物言いがつきました。協議しました結果、軍配通りに〇〇の勝ちと決しました・・・・
 
 この類が慣例のセリフである。
 貴乃花審判部長の説明を初めて聞いた時、業界の企業努力に敬意を抱いた。しかし、その後何度か他の審判長の説明を聞くたびにその事実を否定せざるを得なかった。つまり、これは人間個々が持ち合わせる「哲学の会得」姿勢の問題だ、との結論に達したのである。結論を性急に出せと言うのではない。わかりきっていることや言及の必要性のない点までだらだらと前置きするな、と言うことである。何を言いたいのかがはっきりしないままに「説明義務」を果たしていると思い込んでいるような政治家を見るにつけ、貴乃花親方の「審判結果」発表のような最短時間で要点のみを述べる手法を磨いて欲しいと願うばかりである。
 校長職時代に、職員会議と言う仰々しい場面で「何を言いたいかわからん」とぼやきながら忍の一字に徹した苦渋の時間が彷彿としてきた。決め手のポイントを押さえる学習はどうすれば会得できるのだろうか。同業者には厳しい老輩は、授業での「無駄話」に興じる教員各位にそのまま結論を熟考することを委ねておきたい。今朝のボヤキはこの程度にしてペンを置くことにしよう。

2011/11/18

日常と「非日常」

~4歳の孫の「せりふ」で気づく~
 小生は健康管理の一環として「日常化」している行動がいくつか顕在する。
 4月に当地に転居して7カ月を孫たちと生活している。祖父ちゃんの異常な行動(笑)に気づき始めたようである。的確にその感想を表出してくれるのが最年少の孫息子である。8月で4歳になった。つい先日、いつもよりかなり遅い時間の「朝ぶろ」のために浴室に入ろうとした祖父ちゃんに向かって発した言葉が浴槽で考える時間を増殖させてくれた。「夜でもないのに、なんでお風呂にはいるの?」であった。数日後の夜、一緒にお風呂に入って出てきた孫に、また異常な祖父ちゃんの行動が目に付いたらしく次の表現である。「風邪ひいているの?」の質問に「引いてないよ」の回答に訝しい思いになったのだろうか。「風邪もひいてないのに、なんで体温計を使っているの?」であった。老脳の思考回路が説明文で埋まってしまった。「話せば長くなるが・・・」である。
 日常的な動きは異常に映らないが、非日常的な言動(笑)は異常になってしまう。
 鍼診療師の指導により、『自然治癒』療法として半身浴の日常化を推されたのである。小生の長年の腰痛との格闘を師はご存じだったからである。科学療法(医学)の力を頼らずに自然治癒できるには温浴を続けることの重要性を自らの納得で開始したのが『腰湯(=師のネーミング)」である。ほぼ10年になるが、自然治癒力のパワーを実体験しているというのが結論である。つまり、その間、腰痛の症状が出ても悪化は全くない。医療のお世話になっていた10年前が嘘のようであるから嘘ではない(笑)。
 体温計の常用は、朝夕の体温を記録することを指示されたからである。
 体温が下がれば病原菌への抵抗力が下がるという業界の常識らしい。加齢と同時に体温は下がるとばかり思い込んでいた小生に、37度あったら(小生夫婦の常識では「微熱」)、どんな菌にも勝てるという講釈に半信半疑で朝夕の体温を測り始めて驚いた。検温への意識を確立できたのも、「風邪をひかなくなった」現象である。ここ4年間風邪を引いた症状は全くない。参考までに、小生の朝の体温は36度前後であるが、就寝前は36度5分から37度1分である。常識と思っているのが「日常的」だとすれば37度は微熱と思い込んでいたのは日常的であったことになる。
 烏の行水と言われた小生の入浴であったが、夏でも朝の半身浴は20分、夜の入浴は10分間浴槽で「禅を組む」心境でラジオを聴きながら「自然治癒力」を保持するための務めとなっている。世間の非日常的な言動が、小生にとっては日常的な動きであることをいつの日か孫たちも理解することであろう。よしんば、理解しなくても良い現象であることも納得している。
 6時半に出向した昨日は、午前3時に起床して『腰湯』を済ませて体温を計って記録して日常化を続けている。11年間薬と言う名のつくモノは胃袋に入っていない。小生の薬は??晩酌である(笑)。今朝も駄弁を弄しました。予防は直前に施しても予防にはならないそうですよ。予防こそが「日常的」に行うことのようです!!晩酌は小生の日常的「予防薬」の服用であるとご理解くださいませ。

2011/11/17

急に『寒く』なりましたが・・・。

~寒暖を繰り返しながら確実に冬が迫る~
 全国の読者のみなさん。お風邪などひいていませんか?
 TV画面の全国の気温一覧を見ながら、前住居地との温度差に驚いています。南国九州で生まれ育った小生は、18歳で神奈川に上京した折の「冬」の寒さを当時の記憶では「風ばかり引いています」との手紙がその証拠を示しています。この手紙は上京したばかりの4月に送った母への手紙です。何故か何十年も持っていました。今度の転居で処分しましたが記憶は「書いて」みただけでも残るものだということも知りました。次兄と過ごした当時は、炬燵も持っていなかったので布団を卓袱台に掛けて暖をとったことも思い出しています。その年の暮れに、兄が薄給を叩いて炬燵を買ってくれました。あの温もりも感謝の念も贅沢に慣れると忘れてしまうのです。薄情なものですよね。
 今日は神奈川県藤沢市に出講です。
 今日はこの冬一番の寒気団が関東平野にも降りてくる、との天気予報です。一段と寒い地方に転居していますので「風ばかり引いています」との手紙を送信しなくて済むように健康管理には気を配らなくてはいけません。朝夕の気温の低さに馴染むには何回かの冬を過ごしながら寒気を肺や心臓に送り込むことが必要かもしれません。そんな思いで今朝も出講の準備のために3時に起床しました。6時半には電車に乗ります。幸か不幸か、駅まで徒歩でも5分かかりません。身体が温まる時間も無く車中の人になります。電車の中で「するべき仕事」の段取りも終わりました。
 寒さに向かう折りです。健康にはくれぐれも注意してお過ごしください。行ってまいります!

2011/11/16

『親バカ』を吐露します!!


 ~嫁がせて13年が過ぎた??~

 長女が嫁いだのが新任の校長として着任した年度末だった。その2前年に母親が他界したので孫の花嫁姿は見て貰えなかった。そんな朧気な記憶を弄っての表記であるので正確なものではないが、かれこれ13年ぐらいは過ぎているようである。当時は神奈川県茅ケ崎市に住んでいたので、嫁ぎ先の千葉県八街市までの距離はそれなりの「嫁ぐ」距離感は有ったような気がしていた。嫁ぎ先のご両親に大事に育てられて娘から嫁へと成長して行く言動に目や耳を疑ったことも多かった。感謝の一言に尽きる。  昨年あたりから、「ちっちゃなお店」を開く準備に入ったとの情報は届いたが、自営業とは全く無縁の給与所得者には別世界である。わが人生で資金の調達やその回転業務など話題にも付いていけない環境で育った娘が、自営業である嫁ぎ先の生活にはカルチャーショックも受けたことだろう。愚痴を零さないのは母親譲りなのだろう。父親の小生とは似つかない性格である。そんな娘が、ホームページを創設して「新業務」を起ち上げたのである。小生のHPにリンクすることぐらいしかできない無能な父親であることは自他ともに認めることであるが、何か「お手伝いの真似事」でもしたくなっている自分が滑稽である。これを『親バカ』と言うのであろうか。

 子育てにも神経質な言動を飛ばしたことも無い。進学も就職も全く関知せずに3人の子供を育てた父親も、孫軍団の存在で少々気風が変わってきたのかもしれない。そこで、写真(上)に商品を撮ってみた。
 そして、このブログにお目通しいただく読者のみなさんだけにでも広報できれば親バカとしての責務の一部分を果たせるのではないかと考えたのである。嫁ぎ先の千葉県八街市は落花生の特産地である。落花生を天日干しにしている風景(写真・右)が、初めて訪問した日の思い出としてもはっきりと浮かんでくるほどの生産地である。嫁ぎ先の家業の援助を受けて「ちいさなお店」をネットで開店した長女が動き出しました。お店のホームページ(小生のHPのトップ画面「やまよし」)を覗いて見ていただけるだけでも嬉しいことである。お時間がありましたらよろしくお願いします。

2011/11/15

10月18日付ブログの約束を果たします!




 ~講演資料として活用して・・~

 11月12日 千葉県八街市での『地域福祉フォーラム 』への登壇も3年目。

 去る10月18日の当ブログで「感動のスピーチ」を取り上げました。作者の祖父との告別のスピーチでしたので当事者には使用目的を話して、若干の書き直しも要求しました。完成したものを講演の朗読資料として更に手直しをして再度本人の承諾を得て 出来上がりました。会場で朗読しました。ハンカチで涙をふかれる光景が多数ありました。 告別式は先月の17日でしたので一か月掛からずに資料として活用できたことに満足しています。

 講演会後の懇親会でも資料への反応がたくさんありました。資料を欲しいと仰る方もありましたのでご要望の手段でお送りする約束をして帰ってきました。

 祖父母業に連日精を出している(笑)小生夫婦もこの「孫の眼」の観点を十分に理解して、次々世代への「申し送り状」として、古い生き方の存在感を残しておくべきだと考えるようになりました。時代は繰り返しながら変遷していくのでしょうか。小学生時代に「放射能・雨」というその時代の用語として日常化されていたことを思い出しながら時代の繰り返しと変遷を痛感している毎日です。

 久しぶりの外孫(娘の子供)とのゆっくりした数日間は、また楽しいモノでした。赤ん坊とばかり思っていた末孫が年が明けたら小学校に入学だという。祖父ちゃんも年を取る筈!!(笑)。

 とりあえず、気になっていたこのブログでのお約束をここに果たしすことが出来てホッとしています。

2011/11/11

森重久弥節を聴きながら・・・

~「知床旅情」に元歌があった?~
 1週間前と同時刻に起床したので早朝『腰湯』の時間も早い。
 3時からのラジオ番組を浴室で聴きながらうっとりしてしまった。今朝は森重久弥氏の「うた」特集であった。後に加藤登紀子さんという歌手が歌った「知床旅情」という作品の成り立ちをアナウンサーの解説を聞いた。「オホーツクの・・・・・」と言う氏の作詞作曲の元歌があったことを現物にて聴くことが出来たことは至福である。知らなかったので妙に新鮮に聞こえた。
 個性的??な芸能人。
 大好きな俳優さんのお一人でもある。主演された「社長シリーズ」を何本も観ているので歌声を耳で捉えながらも脳裏を掠めるのは映画の独特な雰囲気であった。ラジオ番組での特別シリーズは昨日が氏の亡くなられた日だったようである。95歳の人生を終えられたとの説明を聞きながら芸能人としての知性、つまり演技力や歌唱力を通して個性を十分に国民に知らしめた存在感はやっぱり素晴らしい人生だったのだと、ファンとしての感激してしまった。
 今日は「近くて遠い」地に出講である。
 神奈川県藤沢市に出向くのに、当地を6時37分の常磐線に乗車しなければならない。広島や高知、鳥取に出向く日程と変わらない。つまり、特急電車や新幹線を利用しないと合理的な旅の時間を使いこなすことにはならないということである。矛盾を感じない訳ではないが、当然のことでもある。
 明日も至近距離にある燐県・千葉県八街市が会場となる。幸いにも長女が近くに住んでいるので今夜は藤沢市の会場から直行することにしている。数か月ぶりに孫たちとも会えるのが、また別の楽しみでもある。従って数日間の本ブログを休刊いたしますのでご了解ください。

2011/11/10

教員人生の「転換」地点

 ~「38歳」の初冬の出来事~
 正式な日付で言えば29年前の「昨日=11月9日」の出来事です。
 英語の教員を務めながら、「海外研修」(留学も含めて)を経験していないのは肩身の狭い心情は常に脳裏を掠めていました。夏季休業を利用して学校長の許可を得て市教委の承認を受けて短期であっても海外に語学研修に参加する同僚(英語教員)を横目に見ながら、妻にも言えず悶々としていたことも事実です。3人の子供を育てる専業主婦の妻の苦労ぶりを知っているからこそ言い出すことはとてもできないまま教員生活を続けていた小生でした。そんな時期に、大きな転機となる研修機会が飛び込んで来たのです。文部省(当時)主催の中央研修を受講することになりました。2年前の2月のハプニングでした。当時、中学3年生を担任していました。入学試験と卒業の直前でしたので、そんな時期に担任が不在になったら学級の生徒たちの不安も大きいだろうから、と小生は校長先生に拒否の回答をしました。怒ったことのない校長先生から罵声を発せられ啞然として校長室を出たのを、本当に昨日のように思い出しています。詳細は省略しますが、その研修の延長線上に「海外研修」が待っていたのです。
 1か月間の長期研修旅行。
 「渉外」という通訳の仕事でした。最初の訪問国はブルガリアでした。日本語~英語~ブルガリア語~英語~日本語と数往復をしているうちに内容に大きなズレが生じているのに気づきました。真冬のブルガリアは雪景色でした。しかし、寒いこともすっかり忘れて背中は汗びっしょりでした。そんな体験を皮切りにロングランを終えて帰国しました。失敗だらけの研修でしたが、その後の教壇生活には大きな大きな変化が生まれました。帰国報告をするために市教委・教育長室へ伺いました。「公的なお金を掛けて海外研修に派遣したのですから、今後はその恩返しのために頑張ってくださいよ」との教育長のお言葉はその後の教員人生の支柱になっていました。
 そんな大きな人生の転換期となった思い出の日が「11月9日」なのです。
 あれから約30年の歳月が流れました。公費(=税金)を掛けていただいた御恩を「立派にお返し」することも少なく齢を重ねるだけとなってしまいました。せめて、後進の「同業者=教員」に対しては、『恩送り』の真似事でもしなければ、と心新たにしている朝です。

2011/11/09

実にタイムリーな話題

 ~「ゆでガエル現象」の深意~
 小生の鍼診療を終えて妻の診療に移った。

 診療の合間を縫って敬愛する師の言葉を求めて談笑する。診療自体に関わる忠告は当然ながら、氏が危惧される「生活環境」全般に渡る話題が小生夫婦の「健康づくり」に多大なる影響を与えることが実証されているので、更なる欲求を満足したく通常の生活の中で疑問に思っていることや不安に思っている自らの体調等について話題を振るのである。

 師が危惧されているの『電磁波』なのである。

 孫を持つ祖父ちゃんとしては、孫世代には必需品であると思われる携帯電話や電子レンジ等と電磁波の関連が心配な訳である。全てが「電化される」傾向から生活様式に不安が募るのは小生だけだろうか。そんな実態も語りながら情報を得るのである。

 実体験的な感覚に疎い小生にはピンとこないところがあったが某大学の教授が自らのゼミ生を中心に「ゲーム機」愛着度と脳波を調査研究した結果を書籍にして発行された。講演も直にお聴きしたのでデータと現状がダブルパンチで祖父ちゃん脳に大きな衝撃が走ったのは事実である。この話題は以前にしたことがある。この紙面では多くは述べられないので、偶然にも師の口から飛び出した言葉についてのみご紹介しよう。

 前日に読んだばかりの新聞記事である。(写真版) 恥ずかしながら、「ゆでガエル現象」という表現を知らなかったので、新聞記事を読み終えても妙にくっきりと記憶に残っていた。


 「ゆでガエル現象」そのものが電磁波による人体を蝕む現象を説明していることである、が開口一番であった。じわじわと電磁波が人体に向かって押し寄せているのに気が付かないままに体調を崩し、気が付いた時にはぼろぼろの病身になっている、ってことだよ、角田さん。


 師の捨て台詞にも似た言葉が今回も小さな老脳を刺激した。

 電力会社と電気製品メーカー。オール電化と生活様式の利便性。時間短縮と効率性。一対の言葉を並べながら妻の診療が終わるのを待った。

 モノづくりが日本文化の誇りだった、筈であるが「手作り」も全て消滅しそうな利器文明社会の実現である。人づくり(教育)も、同様に括られがちな時代も到来しそうである。電磁波に蝕まれた心身に「学力だけを積んで」その評価だけを競うような恐ろしい時代になってしまうことに恐怖すら感じる祖父ちゃんであります。

 「ゆでガエル現象」の怖さを、師の多角的なデータを通して聴いた余韻で、帰りの電車(ここも電気?)の中でも老夫婦の話題として事欠かなかった。 

2011/11/08

『立冬』の朝は・・・

 ~隔週設定の「鍼診療日」~
 深夜に雨音で半分目が覚めた(笑)状態で夢うつつでしたが雨戸を開けて地面の湿り具合が雨量を確認させてくれました。新潟県の上越地方ではまだ雨が降っているとのラジオを聴きながらこの雨がこれからは豪雪地帯の特徴を演出するのだろう、と考えつつパソコンに向かっています。
 転居しても東京都町田市の鍼診療所には通うことを決めた老夫婦は、今朝も出立の準備をしています。片道3時間弱の「乗車時間」に堪えられなくなったら通所は断念することになるでしょうが、現時点では意志が固いので出かけることにします。
 今日は立冬。
 暦の上での季節は、実態とはかけ離れることも多いのですが、心情では「もう、冬か!」と言う思いは募りますね。昨夜、卒業生からのメールを受信しました。「ミニ同窓会」の案内です。毎年の「暮れの行事」です。大掛かりな同窓会ではないのですが、毎回15名ぐらいは集まって来ます。勤務した中学校が藤沢市の関係から会場は藤沢市となっています。昨年までは茅ヶ崎市からの参加でしたので時間的な負担は全くなかったのですが、今回からはかなりの遠距離になってしまったので若干の躊躇いもありました。しかしながら、カレンダーには既に記入済みの行事ですので「参加します」の意志表示を送信しました。卒業生との再会は、また格別な思いに浸ることが出来ます(反省も多いですが・・)。
 寒くなります。
 茅ヶ崎より少しだけでも「寒い」地方に転居したのですから覚悟はしています。風邪などひかないように気を付けたいと心している立冬の朝です。読者諸兄も健康には気を付けてお過ごしください。

2011/11/07

万艱こもごも到る

 ~29回の積み重ねに・・・~
 さまざまな感情が次から次へと湧き起こる、という意味らしい。
 「万感胸に迫る」の表現が分かり易いのだろうが敢えて挙げてみた表現である。この実感を味わったのが5日(土)の浜松『響の会』周期セミナーでの代表役を押し付けている鶴見氏の開会の言葉が耳に届いた瞬間からだった。迫ってきた万感に押されてしまったのか、実践発表者の写真も取り損なってしまって猛省である。
 「加齢の証」をいくつも体験する年齢になっているが、「走馬灯の巡るが如く・・・」との比喩を使うようになってしまっていることもその証の一つである。この浜松市でのセミナーを開始させたのは当時の1つの小学校の先生たちであった。発信としである神奈川県茅ケ崎市は当然ながら、東京都立川市や広島県広島市にも『響の会』は開設され管理職の先生方の肝いりで定期的に実践されている。校長・教頭というトップリーダーの声掛かりがあると一般教員も刺激を求めて参加するのが「教員の自主研修会」である。自主研修であれば会費は付き物である。当然ながら主宰する『響の会』も受付で参加費を払って会場に入ることになる。
 茅ヶ崎で立ち上げた時点でも「参加費の額」では様々な考えを聞いたことを思い出している。「身銭を切って」、とは古い表現であるが、更に古い表現にすれば「木戸銭を払って」となるだろう。自らの修養する事まで「公費(=つまり税金)」を使うことに、身分保障とばかりに慣れてしまうことほど怖いものはない。つまり、主催者側の資金で運営され参加費無料と銘打って開催される研修会である。
 主宰者として推された時点で自らの考えを明らかにした。補助金をいただいたり、会場費を軽減して戴くことへの抵抗感が強かったのである。なぜならば、解説しようとする研修会の参加者は列記とした教育公務員であるからだ。公務員としての意識がややもすると公私混同に陥る。「なつやすみ」という学校文化でさえも教員も「なつやすみ」として定着しかかった恥ずべき時代に教員として生きていたからである。私的な会話で、「先生は良いですね、夏休みが長くて・・・」と挨拶代わりの言葉を掛けられとても嫌だった。考えてみれば現状に応じた社会通念だったのである。
 横道に逸れたが、この浜松のセミナーに集う「仲間たち」は、管理職のお墨付きも無く、全く自らの意志で参加費を毎回払って「学び」を求めて参集しているのである。正規の事務局もない。そんな状況下で参加費をやりくりしながら10年もの間継続して開催している関係者の苦労を察すると胸が熱くなったのである。様々な光景も浮かんでは消えた。走り出した頃の「向こう見ず」の運営ぶりも今となっては懐かしい思い出となって走馬灯を駆け巡るのである。鶴見・幸村両氏の姿勢には頭が上がりません。いつも受付をやり続けている美和さんにも感謝の言葉を探すほどである。
 「次回は30回目を迎えます」との代表の言葉は、帰宅後のメールで「記念すべき会」にしたいのでより一層のご指導をお願いします」、との内容で締めくくられている。日程の候補日も挙げていただきました。最優先です!ご希望の日時を選んでください、と返信しておきました。
 参加され聴講された方々に十分な講義ができたかどうか?自省をしている朝です。

2011/11/06

閑かに小雨の降る午後・・・。

 ~少し雨脚が強くなったような気がします~
 昨夜は関係者の配慮で予定していた時間より1時間早い新幹線「ひかり号」で浜松駅を発つことが出来ましたが、道程の距離は縮みませんから所要時間を同じです。しかし、夜の1時間の貴重さを痛感しつつ我儘を聞き入れていただいたことに感謝しながら車中の時間を過ごしました。
 缶ビールを買うのは一種の病気(笑)?
 おつまみに購入するのは気分次第で一定したモノはありません。小さなビニール袋を片手にして行列の後ろに並びました。夕刻の6時ですから浜松駅を発つには丁度良い時間帯でしょうか。新幹線を待つお客様の列はいつもとは違いました。1時間に1本の「浜松駅停車・ひかり号」ですから首都圏への戻り客には決しての無理のない時間帯と考えれば乗客も多いに決まっているのでしょう。それにしても背中にあるリュックの重さが肩から首にかけてずしっと食い込んでくる感じが強くなりました。自分との闘いに数分間堪えたらひかり号が到着してくれました。車内はガラガラでした。二人掛けのシートを選んで腰かけて荷物を置き直して腰を引いてゆったりしたことは記憶していながらも新横浜駅を新幹線が出る時刻まで眠り込んでしまったようです。「次は品川です」のアナウンスにビックリして目が覚めました。それはずっと昔に眠ったまま品川駅まで行ってしまったという苦い経験があったからです。当時は茅ヶ崎市に住んでいたので、新横浜駅下車で在来線に乗り換える行程だったからです。誰も知らない筈なのに独りだけで全身に暑さを感じてしまい苦笑している自分に苦笑してしまいました。
 東京駅は眠らない駅です。
 新幹線から山手線に乗り換えるのに構内を歩きながら「どこからこんなに多くの人が来ているんだろう」と、良く自問自答するのですが、結論は常に自らに返ってくるのです。「そういうキミも周囲の人から見れば・・・」ですよね(笑)。
 上野駅は東京駅とを、ちと違います。
 『東北』の地へ繋がる起点であることに違いがあるのでしょうか。構内のルックス(照明度)も少々暗いよな感じもします。でも、そこが何となく気に入っていることも事実です。地方に向かう「特急列車」の発車案内もそんな感情を掻き立てるのでしょうか。北海道へ直行する特急列車の後姿は東京駅では見ることが出来なくなってしまいました。40年前ごろは、九州出身の小生は何時間も前に乗車予定の特急列車の乗客が並ぶ行列に座って待ったものでした。故郷への郷愁の思いで何時間でも待てたのでしょう。今は、新幹線の普及で東京駅は様変わりです。
 昨夜も、上野駅では特急列車に乗車せず普通電車の「常磐線・勝田」駅行きに乗りました。下車駅までの所要時間は1時間半です。特急列車に乗車しても土浦駅で下車して在来線に乗り換えなければなりません。接続が不備な場合は25分間も駅のホームで待つことになります。従って普通電車で行ってもあまり変わらないのです。そんな生活環境部分でも、当地の生活に「慣れてきた」と言うことでしょう。
 途中から車窓に雨がぶつかる音も聞こえ始めました。
 旅慣れしている人の条件に、「傘の常備」があるそうです。小生も自他ともに認める旅慣れした旅人認めているのです。座席の横においてあるリュックから常備しているはずの傘を取り出そうとしてハッとしました。玄関先の定位置にぶら下げたままに出発してしまった光景が浮かんできたからなのです。出発時点で「リュックに入れれば・・・」と自意識はあったのモノの、現実にはリュックに傘が存在しないのです。出発時間を勘違いした症状(前回のブログ)の副作用が顕在でした。時間がありすぎたので「後で・・」の癖が出てしまったのを今更悔やんでも仕方がない状況下に押し込まれました。皮肉なことに取手駅構内で停車している電車の窓には叩きつけるような雨脚ではありませんか!!取手駅から下車駅まではまだ45分はあります。このままの雨脚が東に移動する時間に到着です。前途多難!
 この旅人は「晴れ男」と言われることが多いのです。しかし、昨夜は一縷の期待も持てない状況でした。しかし、しかし・・・ですよ。なんと下車駅では傘をさしている人はいらっしゃるのですが、差さないで歩いている人もいらっしゃるではありませんか。ほくそ笑んで改札口を出たことは間違いありません。傘も要らずに帰宅しました。妻は玄関先にぶら下がったままの傘に気づいていません。従って、電車内の心理状態の報告も解説も無用だったのです。ゆっくりと入浴を済ませてそそくさに布団に潜り込みました。即刻の深い眠りに陥ったことは間違いありません。
 眠ってしまえば過去の話は小生の人生には不似合なのです(笑)。
 そんな昨日の風景を思い出したのは午睡の直前でした。そして孫の襲来に目を覚まして、雨脚の強くなった庭先の栗林を見ながら2日間の『旅』を思い出しています。皆さん、ありがとう!!

2011/11/04

『勘違い』と爺の思い込み

 ~1週間後の出発時刻と・・・~
 昨夜の妻の問いかけを苦笑しながら思い出している午前4時。
 3時40分が体内時計の「起床時刻」である。目覚まし時計は殆ど使用しないのが日常。3時に起きる予定になった場合のみ外注する(笑)。つまり時計に時刻設定のアラームを利用することにしているのは非日常。昨夜の時点では「完璧なまでの思い込み」で、アラームを必要とする意識であった。アラームの音が鳴ったので、「そうか!今日は遠出だった」とばかりに老夫婦は無言のままに勝手な動きに入った。早朝の半身浴時間も日常より1時間早めであったが、疑うことも無く夫婦は黙々と早朝の出立準備である。退職後のリズムは時として非日常的な動きになることも慣れてしまっているので日常的な動きにはそれぞれが気にもかけない状況であった。
 来週の神奈川県藤沢市への出講のための出発時刻と勘違いしていたことに気づいたのは4時の朝食を終えて荷物の確認に取り掛かった時である。浜松駅に12時半に到着する新幹線なら東京駅を11時ごろだよなぁ・・・、と独り言を言いながら時刻を逆算すると誤差の大きさに気づいてしまった(笑)。
 近距離の普通電車利用での移動が、新幹線を利用した時よりも所要時間が長いのである。つまり、神奈川県藤沢市に向かう普通電車利用の時間設定より名古屋駅直行の「ひかり号」利用の方が短い時間で目的地に到着できるのだ。そんな日常的な旅のプラン作りの基本的な着想が、老脳を攪乱してしまったようである。
 笑って誤魔化す!!
 そんな夫の腹の中を見据えたかのような老妻の一言。「逆でなくて良かったじゃないですか!!」と悠然として録画しているらしいTV番組を見始めた。ご指摘の通り(笑)、逆だったらパニックを起こしてしまうだろう。間違ってしまったお蔭で(笑)、このブログも書き終えてからでも十分余る時間となっている。こうした失敗談をブログにすると反響が必ずある。それは異口同音に「ホッとします」と書かれているではないか。講演活動と言う「偉そうにモノを言う??」活動を主にしている小生は、失敗などすることなく立派に生きている人間として映っているらしい(?)。怖いことだ!
 自粛しつつ、何度となく自省しても生まれつきの能天気は変わる由も無し。
 そんな能天気者は余った時間を利して、読みかけのミステリー小説でも読みながら束の間の転寝を満喫することにしましょう。おやすみなさい・・・、そして、時間が来たら「行ってまいります!」。浜松『響の会』に参集される先生方との久しぶりの再会を楽しみにして出かけます。

2011/11/03

茅ヶ崎から運んだ「菊の花」が咲きました!

 ~植え替えて丹精込めた妻の作品?~
 親しくさせていただいていた茅ヶ崎のご近所の方から戴いた妻のお気に入りの「菊の花」がやっと見ごろになり多くの花が開き始めました。深紅色の花弁は夫も好きであります!震災の余震に揺れ、放射能とやらの攻撃も受けながらも見事に根を張って育ってくれました。
 妻は最初に咲いた一輪を特製の花瓶に挿して仏壇に供えていました。
 速いモノで三回忌も同時に済んだ義父母のお墓にも近々、咲き誇る菊の花を持参することでしょう。仏花を「買わないで」供えること、は転居の際の妻の夢でもあったようです。まだ、余裕もなく上手に栽培が進んでいませんが、茅ヶ崎の「猫の額」に比べれば何十倍もある庭です。また、近隣は農地(栗畑)でもあり、植物を育てるには絶好の土地であるのは今後の楽しみになること間違いありません。
 小生はこの写真を、戴いた茅ヶ崎の知人に葉書に転写してお礼状を作りました。そして、歩禅のコースで投函して来ました。夕暮れの農道が歩禅のコースです。西方に筑波山を見ながらスローライフを地で行っているような気分にも誘ってくれます。もみ殻を焼いている田んぼの方から流れる「煙り」に、農家の倅として育った幼い日々の「故郷の匂い」を思い出して感激してしまいます。何十年間も忘れていた故郷の香りの一つなのです。
 今日は、転居して初めて国旗を揚げました。
 転居してから数回の旗日にもゆとりがなかったのでしょうか。一度も揚げて上げていなかったのでホッとしました。茅ヶ崎だけでなく、この地でも軒先に国旗が揚がっている家はありません。国状として理解してしまっても仕方のない現実ですね。主義信条の問題でしょうから、他者への批判や中傷はありません。庭で遊ぶ孫たちの視界にその存在感が残像として思い出されれば祖父としての細やかな望みが果たせるというだけです。
 明日は暫くぶりに遠出します。
 早朝から愛知県豊橋市へ向かいます。明後日は静岡県浜松市に戻って仕事を終えたら宿泊せずに直帰する予定です。深夜の帰宅になりますが、頑張って仕事をしてまいりましょう。

2011/11/02

新世代ベアーズ??

 ~動物界にも新しい時代が到来~
 遡上してきた鮭を狙って川に下りてくるヒグマをテレビの画面で見ながら驚いた。
 同一画面に釣り人が数名映っているではないか。その距離は数十メートルだろうか。カメラマンが「クマがいるぞ~!」と大声を上げると双方が気づくが、声に危機感を持ったのはクマのようである。そそくさと森に逃げ込むが、三十分も経たぬうちに再登場するらしい。
 人間を警戒していたクマの世界にも新時代が到来したと関係者がインタビューに応えている。その人物から発せられた言葉が「新世代ベアーズ」であった。自然界にも異常気象が続く。その結果餌も少なくなったと想定しよう。動物界も「生き延びる」術を全身で得る必要が生じる。生きるためには「新・獲物の取り方」までが変貌していると考えてもいいのかもしれない。最終段階では、動物界では人間も餌に該当する世界が近未来は現実化することを避けられない?
 動物界に新世代が出現するとなると、我が人間界も霊長類たるエリートである動物としても更に優秀な新世代の出現が望まれることになる。動物界の「生命力」が衰えることの期待は薄い。一方では知能は霊長類でも生活する知恵はすっかり衰退している新世代の人間は動物界の餌食になってしまうことが予想できそうだ。
 文科省が新世代の子供たちに向かって、学校教育界に「生きる力の育成」を通達してからもう何年になるのだろうか。真剣に「生きる力」を養成するオトナの意識の低さに気づいてもいないことが恐ろしい。授業と言う机上論紛いの時間で「生きる力」が育めるなどと思うことが浅はかではないか。地域で生きる人間は、動物界と同様に「群れを成す」生活の中で育てることが最優先である。人間同士の「関係性」すらも面倒くさい意識でいる現状では、動物に勝る「知恵を生かす」生きる力すらも心もとない。本気で「生きる力」を新世代に伝える義務を現世代の大人は考えねば人類滅亡も時間の問題である。
 新世代ベアーズの特徴は、「人を恐れずに近づく」ことだそうだ。甘く見ると獰猛な肉食動物に餌食になる人間のニュースが届いてしまうかもしれない。本気で「共生する」知恵を産み出すことが人間界には急務ではないだろうか。
 朝から滅入るような話題になってしまいましたね。ゴメンなさい。

2011/11/01

早朝の「録画」視聴で・・・・。

 ~日野原重明 100歳 いのちのメッセージ~
 妻が録画していてくれる番組がある。
 多分夫が喜んでくれるだろうとの思い遣りで録画していてくれるのだろうが、時として「好みではない」番組もある。不平など口にしたことは無く「ありがとう」との一言は必ず添えるが、妻には心が読まれているらしい(笑)。妻もそんな夫の態度に対しても苦情を一言にも表出しない。
 数日前から「時間があったら・・・」と妻から誘いがかかっていた録画番組をやっと今朝視聴した。
 ドキュメンタリー番組なら何でも良い、とも思っていない。時として「やらせ」の影がチラチラする所を考えると「見せたい」意図が邪魔っ気で不快感さえ生じるからである。偉そうにモノ申しているのは、裏方で録画撮りをしてくれている人物に甚だ失礼である。このことも百も承知也。
 10月4日100歳の誕生日をお迎えになられた偉人の「生き様」は、ご著書も読んで承知している。しかも、御茶ノ水女子大付属小学校で「いのちの授業」を2回も参観している。氏が発せられる言葉は「生きている証」と「生きている目的」を、小生のだらしない人生にはぐいぐいと押し込んでもらえるような気がして緊張感が先行する。視聴し終えて妻に型通りの謝辞を述べる。今回こそ深意は伝わっていると思うが・・・。

 どの患者にも残された(いのちの)時間がある。我に授かった「与えられた命」で恩返しをすることが医師としてのミッションである。何が自分にできるか?出来ることを探し出して患者に恩返しをするのです。それが授かった命だからです。よど号事件で死を覚悟したあの日から助かった命は「授けられた命」に代わったのです。110歳まで生きます。生きて恩返しをします。

 氏の発せられた言葉=ミッションへの意識が興奮剤となった朝である。
 氏のように100歳まで生きる自信は全くないが、こんな凡庸な人生を生きている人間にも「授けられた命」は在る筈だ。大したことも「恩返し」できないが、せめてこの意識だけは偉人に学び、自己流にして真似をさせていただきたいモノである。恩返しの代わりに「恩送り」に徹したい。
 92歳の奥様を愛おしがられる光景が何だか眩しかった。ホンのちょっぴり妻への「感謝の念」を言動に表すべきではないかと自省した早朝のひと時でもあった。

2011/10/31

新聞記事に思う

 ~教壇生活も遠くに霞み始めましたが・・・・~
 夢中に歩んだ教員生活も思い出すことは殆どありません。それは、「失敗を思い出したくないから」、ではありません。実は、殆ど記憶の外に出てしまっているのです。そこに「霞む」という症状が出始めたのですから重症なんでしょうかね(笑)。
 衝撃はその症状に刺激を与えるものを言うようです。
 穏やかなゆったりした老後の生活に慣れ親しむと、霞みの濃度が濃くなります。孫のリズムを中心にした生活を始めて半年も過ぎるとその症状が固定化するのかもしれません。それはそれなりに激務だった現職時代からの「夢」でもあったのですから決して不満があるわけではありません。寧ろ喜ぶべき症状なのかもしれません。
 しかし、先だってのある小学校からの相談を受けて、現状踏査と当事者からの現状報告と対応状況を数時間に渡って聞き取り調査に伺いました。耳に現状報告を入れながら脳裏を流れる血液の脈打つ音が聞こえる程までに大脳が活性化してしまった(笑)ようでした。帰路の電車の中に坐した一人の旅人は、「教員時代」の思考回路に戻っていました。哀しいかな??当事者には戻れないのです。自分なりの経験値を入れた対応策を指導した帰り道は「どうしようもない焦燥感」に襲われてしまいました。
 教育の根本。それは「先生の存在」です。
 不登校や学級崩壊の問題症状発覚に至るまでの該当教員の「自らの存在感」を蔑ろにしてしまった罪の意識が異常なまでに低いことが先ず要因です。間接的な原因があるとすれば現職教育に本腰を入れていない学校経営の甘さだと考えたからでもありました。『先生の存在感』をどこかに置き忘れ、今の自分と学級の現状だけを天秤にかけて、過去と同じ療法で学級づくりをしていることに気づかす、子供の抵抗ぶりに指導力でも落ちたかのような錯覚で落ち込んでしまう50歳代の教師集団の多いことは全国的な傾向なのです。
 なぜ??存在感の自意識を育てることに鈍感な学校教育従事者の責任があまりにも薄いからです。時代がどんどん・・・いやめまぐるしく急変する時代です。時代が変われば子供の実態も変わります。着想も驚くほどに急変しています。だからこそ、「先生の存在」が大きいのです。
 日本文化を支え続けてきた学校教育界に存在した「恩師」という言語が地に落ちてしまうようでは「先生の存在感」など存在しません。自信を持って子供たちの未来を夢見るような先生たちが多く育ってほしい。そんな思いがこの新聞記事で膨らみました。
 全国の「先生たち」に告ぐ!!
 この新聞記事をコピーして読み直してください。最終段落の冒頭の二行を抜き書きして職員室の机上に貼ってください。皆さんを頼りにして生きている子供やその親が皆さんの奮闘を期待しているのです。失敗?小生なんか多すぎて塚が出来ました(=『失敗塚』)。時々、先祖への供養のついでに(笑)、自製の「念仏」を唱えています。それは、「まっ、良いか。ゴメン!」です。どうぞ、真似してみてくださいませ。

2011/10/30

Trick-or-treat!???

 ~日本文化の中で芽生える異文化~
 現在の自宅は私道も行き止まりで、突き当りは栗畑である。
 夕暮れ時になった。どこかで見たような服装の女の子たちが4~5名で母屋の門周辺をうろうろしている。ハローウィンという異文化がここ土浦の自宅前にも浸透してきているのか!元・中学校の英語教師としては仄かに残るワンシーンが走馬灯を巡る。実際に留学した経験もない中学校英語教師が「・・らしいよ。・・・するんだってよ。」と、教科書で扱う Halloween なるキリスト教文化について講釈をしたのである。当時の中学生が、門前で蠢いている女の子たちの親の年代だろうか。走馬灯は急回転しながらその頃の英語の授業風景を映し出してくれるが、30年後の「親の世代」までの映像など在る筈がない。異文化の排除などの意識はさらさら無いが、「何でも取り入れる」コマーシャリズムに煽動されてしまう日本人の生活信条の緩さには警告を発したい気分でもある。
 孫たちを連れて今日は市内で最大のショッピングモールに行ったが、「かぼちゃ」(人面に刳り抜かれた)やキャンディやお菓子類が山になっているところには多くの人だかりが発生していた。今日は10月30日である。明日が欧米のキリスト教文化圏ではそのハローウィンであると、知識としてだけ小生は承知はしている。つまり「知っている文化」なのである。
 英語の授業とキリスト教文化は密接である。その文化の中で生まれた言語であれば当然である。担当教師ては「知識のばら売り」をして授業を成立させたが、重要な文化論と生活論は英語の授業では出来ていないような反省も蘇る。
 ただ一つだけ言いたいのは、商業主義に振り回されている若者文化の行く末が心配であることだ。バレンタインデーとチョコレート商戦はその最たるものとして今でも不愉快になるのは、その恩恵を受けないから??義理〇〇〇なんて、派生した日本文化として存在すること自体が恥ずかしい事態と捉えているのである。読者諸兄のお考えやいかに・・・!?
 夕暮れに雨も降り始めた。インフルエンザも流行している。学級閉鎖も実在している。正しい健康管理を優先させてほしいと願うだけで、子供たちの娯楽まで妨害しようと思っている訳ではない。これだけはご理解願いたい。
 ハローウィンが来るともう11月。新居も暖房準備のためにチョッピリ部屋の模様替えをしました。

2011/10/29

茨城県古河市を2日間で2往復!

 ~38キロの距離を電車と自家用車で・・・・~
 昨日は、上野駅経由でJR宇都宮線で古河駅まで行きました。飛び込みの訪問要請の電話を先週受けたので昨日が当日となったからです。お迎えをいただいた先生の車で学校まで行きましたが、帰りは校務の関係から訪問した小学校からはJRの乗車・降車駅までタクシーに乗りました。メーターで検出する料金に驚きました。車で30分かかる所のタクシー利用は久しぶりのことでした。貧乏性の老輩は、ガソリン代と換算してしまいました。帰路の電車の中ではそのことばかり考えていました。
 帰宅したら、妻が唐突にも訪問した学校の所在地と従姉の三男が住んでいる住所が近いのではないか、と言うのです。当人に直接電話を掛けることになりました。掛けて双方でビックリ仰天しました。そこの二人の子供たちが卒業した小学校だったではありませんか!!!l 
 そんな偶然に駆られて、今日は地図を頼りに(ナビは装着していない軽自動車)マイカーを飛ばして(笑)快適な『常陸路』ドライブを楽しむことになりました。昨日訪れた小学校の脇の道路で待ち合わせをして従姉の息子宅に行って来ました。道路標識の案内によると「片道・38キロ」のコースを走ったことになりました。車内から霊峰・つくば山を仰ぎながら若干冷たく感じる晩秋の風を時折車内に入れ込んで爽快なドライブとなりました。
 とても喜んで迎えてくれた家族と歓談を済ませての直帰となりました。
 土浦~上野~古河の電車の所要時間は実質は2時間26分ですが、乗り換えの時間や待ち時間を加味すると優に2時間半を超えることが判明します。片道の乗車券料金は1620円です。単純に倍にして計算しても驚くばかりです。軽自動車は満タンにしても4千円を割ります。マイカーで移動すると乗車時間は from door to door で片道1時間で到着することが判明しました。「腰が抜けそう」な計算になりました。
 茨城県で住むには「車なし」では生きて行けません。皆さんが言われます。
 そんな言葉を実証した二日間でした。茅ヶ崎市に住んでいた頃とは少々生活信条も変更しないといけないかも知れませんね。免許証の更新を終えたばかりの小生は、「次回はもう更新しない」との1つの信条を掲げているのでが、もろくも腰砕けの状況に陥りそうです。
 郷に入っては郷に従い・・・・・、ですかね(笑)。読者の皆さんはどう考えますか?

2011/10/27

秋空のフラワーパーク





 ~これもダリアの花??~


 茨城県立フラワーパークで観た花が本当にダリアの花かと疑うほどであった。

 新聞記事で確認した「ダリア展」が開催期間は未だずっと先まであることは知ってはいる、しかしながら、「花は旬」があり見ごろを過ぎると見る影もなくなるほどに萎れてしまうことが衆知の事実であることも承知している。今朝の青空を眺めていたら「行くのは今日が旬」とばかりに、驚く老妻を車に乗せて地図を頼りに目的地に向かった。道路は、ホントに神奈川県では想像もつかないほど空いている。殆どノーストップ状態での運行状況(笑)であった。自宅を出て、途中を1か所だけ道を間違ったが45分間で到着してしまった。妻が信じられないような顔をして入場券を買っていた。

 場内の敷地の広さにも驚くが、見晴らしと天空との近さも感じつつ別世界の空気を満喫しながらお目当ての「ダリア」の展示場所に向かう案内板に従って歩いた。「これってダリア??」という叫び声も耳に届くので同感と言うため息交じりの反応をしてしまった。歩を進めると写真のようなダリアの花が咲き乱れているではないか。蓮の花?牡丹の花?と見紛うほどのダリアの花に圧倒されてしまった。

 ダリアの花は「好きな花」の一つですか?

 その質問を受けたら、実は「大嫌いだった花」と過去形で答えることになったことだろう。それは何故?そして今は、反転して淡い郷愁にも似た思いで「好きな花」の一つと答えることに落ち着くのはどんな経緯があったことでしょうか?読者の皆さんには推測して戴きましょうかねぇ~。

 昨日、木枯らし一番が東京では吹いたとか。秋の深まりを感じつつ晩秋の常陸の空を満喫しながら、孫の帰宅時間を計算して帰宅しました。写真の「ダリアの花」をご鑑賞ください。

2011/10/26

珍客来たる!

 ~30年も前の同僚が来訪~
 小生が転勤3校目の職場で出会った。新採用として着任した彼は、専門教科が英語と言う共通もあり接触機会は他の新採用(当時は毎年3~5名の同期採用あり)の同僚より多かった。先輩の退職と同時に生徒数の激増で1学年10クラスもあった時代である。急増する生徒数に比例して新採用の数も多くなり学校教育環境も大きく変わらざるを得なかった。
 数年後から学校生活の秩序が乱れ始めて勤務校であった。瞬く間に「手の付けようのない」学年が出現した。我が物顔に新採用教員をからかう輩も珍しくなくなってしまった。
 本日の珍客はそんな新採用時代を過ごした元同僚である。
 生徒指導に明け暮れると授業の準備も疎かになる。授業の準備が不完全であると授業自体が面白味が半減するのだろう。授業中なのに廊下が生徒たちで混み合う状況になるのにそんなに時間はかからなかった。教員の真面目な性格と生徒たちの暴力的な言動とのアンバランスで精神状態が錯乱して採用後数年で退職してしまう教員が目立ったことも思い出話として登場した。
 なぜならば、次の学校に転勤した「本日の珍客」も、小生も全く気付かない内に退職していたのである。私的な関係ではあるが小生夫妻は仲人役も仰せつかったほどであったにも拘わらず、人知れず悩んだ彼は奥様の支援を受けて転職してしまった。発覚した時点で電話での追求(笑)となったことも懐かしい思い出話となった。
 この常磐線の駅を利用しての仕事で昨日から水戸市に来ているとの電話が飛び込んだのが、今朝の9時ごろの出来事だった。仕事を終えて帰路の途中下車で訪問したいとの説明だった。駅まで迎えに出向いた。積もる話には尽きないが、既に予約している来客があるので早めに来てもらったが、あっという間の時間が過ぎてしまった。
 旧友は良いモノだ。
 帰路は土浦駅の利便性を考えて車で送って行くことにしたが、片道15分の車中も思い出話でてんこ盛りになってしまった。二人のお子さんも大人になって立派に成長しているようだ。子育てには苦労は付き物である。そんな励ましを送りながら見送って帰ってきた。

2011/10/25

転居後の「鍼診療」再開2日目

 ~片道約3時間半の通院~
 それでも、「通うこと」を今日も夫婦で確認して帰ってきました。
 10時前に自宅を出て、診療所に到着するのは午後1時前。予約している時間ぎりぎりの到着ですが診療師は11年もの長きに渡ってのお付き合いであるので少々の時間のズレは十分にご理解いただいています。今日は、後「1駅」で到着の列車内で50分も待たされてしまいました。踏切内に自動車が侵入したという事故でした。車内から飛び出して診療所へ電話を入れました。診療師は笑いながら「今日中には届くでしょう。慌てずにいらっしゃい!」との答えで拍子抜けしつつ遅れて到着しました。
 玄関を入ると、何も言わずに「コーヒーは好きだったよね」と妻に問いかけられました。「味は個人によって違うので無理強いはできませんが、札幌に住む友人特製のモノですからご賞味願います」と、素敵なビンを差し出されました。ご好意に感謝して持ち帰りました。
 この診療師に勧められて「特製・水」を愛飲して11年の歳月を過ごしています。その間、国民健康保険証は歯科診療(夫は清掃のみ)以外に使用したことのないほどに「水」の恩恵を受けて元気で生活しているのが我が夫婦です。薬への依存を断ち切っていただいてから11年間の歳月が流れています。
そんな受診者が、往復7時間を要しても「通院・復活」を実現するのは当然のことでしょう?
 疲労の極限だった妻が診療後の爽やかな笑顔に変わってホッとしました。
 小生も全身が「元気復活」を覚える診療後であることを確認して、隔週に「往復7時間」のミニ・トリップをしようと確認することが出来ました。そんな一日が終わって帰ってくると孫・末息子が具合が悪いとの報告を受けて、爺婆は自分のことを忘れて明日の対応を考えている夜です。元気になった祖父ちゃん祖母ちゃんは可愛い孫のお役にたてるように明日は頑張ります!!

2011/10/24

もう、年賀状の購入申込書??

 ~自宅のポストに投函されています~
 先日郵便局に行きました。
 事務処理が終わって支払いを済ませると領主所と一緒に「年賀状購入申込書」もいただいた。自宅の郵便受けには既に届いているものだったが受け取って帰宅しました。
 来年は何枚注文するかね?と夫。ここは神奈川県じゃないからね、と妻。噛み合わない会話は夫婦らしい(笑)。つまり、お世話になった茅ヶ崎の隣人に送ることを妻の意識は先行したようです。地方版の年賀状には目が留まるのですから、来年の年賀状はご当地に合う絵柄を選んでみたくなっています。年賀状の存在価値の論争は別にしても、全国の皆さんに発送しようと夫婦の意志は一致しましたが枚数はこれから決めることにしましょう。
 日本にしかない「年賀状」だそうです。
 日本にしかない「・・・・・・」は、やっぱり意識の中で自分流にアレンジしても大切に保存していきたいものだと感じています。来年の干支は?そんな文化も風流なものとして大事にしたいですね。皆さんの中で来年が「年男・年女」になられる方がいらっしゃいますか?これも味のある日本文化らしい表現です。元祖は殆どがアジア大陸からだということは聞きかじっていますが、やっぱり日本文化として重宝したいものですね。いかがでしょうか? 

2011/10/23

今度は「たんぽぽの群生」??

 ~カメラを向けるチャンスを逸す~
 バッグには常備しているはずのカメラを不携帯のままで歩禅に向かってしまった。
 自宅を出て孫の通学路を途中から外れ、田んぼ一帯を通り抜ける立派な広い農道を選んだ。取り入れの済んだ田んぼからは大役を果たした安堵感すら感じ取れる。ここで収穫された米は放射能セシウム濃度レベルはだいじょうぶだったんだろうか?余計な心配が過るのが辛いご時世ではないか。
 農道であるので農作業の車が2~3台行き交うだけで、歩くのは快適である。地面であることが足裏にも安定感があり膝にも無理が無いような快適感なのである。この地に来て「人と人との距離」を近く感じることができるのが嬉しい。つまり、行き交う人の殆どが「挨拶できるモード」であるからだ。全く知らない我々夫婦にも人懐こく「こんにちは」「お早うございます」との声が掛けられ、当初は少々の戸惑いもあったが今では、こちらからも先を切って挨拶の言葉を掛けることが出来るようになっている。農作業中の人たちからも声がかかる。正に至福の瞬間でもある。
 今日は、いつも遠くに見える筑波山が見えない。西空には雲が多く、昨日からの天候不順を証明しているようだ。農家が立ち並ぶ街区を通りながら足が止まった。住居が撤去されたのか更地になっている住居跡のようだ。200坪はあるかな?更地には「たんぽぽ」の群生があった。綿毛が飛んでいくたんぽぽである。風もなく穏やかな夕暮れ時であるのでその情景は観ることが出来なかったが、確かに「たんぽぽ」であった。
 たんぽぽは「春の季語」では無かったですかね。そのうちに日本文化の俳句から季語が消える??そんなことを考えながら帰宅した。

2011/10/22

これって、紫陽花ですよ、ネっ?!

 ~歩禅の道端で見つけました~
 他人の庭先です。
 失敬して「写真で取りました(=撮りました)」ので花泥棒などと言う洒落た生業ではございません。午後3時に妻と一緒に農協出店の「野菜」を購入する主たる目的で歩き始めました。立ち止まった妻が指差す先にこの花が見えました。「これって紫陽花の花ですよね」と妻が不思議そうに声を掛けましたので注視してみました。草花にそんなに詳しくない小生でも紫陽花の花ぐらいはわかります。確かにそうだと思いながらも「季節感」の伴わない冷たい風に紫陽花の感覚がズレてしまいました。
 ふと思い出した画面が浮かんできました。
 それは今朝の天気予報の番組でした。気象予報官の方が、「今年も代々木公園の桜が咲きました」と言った場面でした。解説を聴いていたら、その桜は去年からこの時期に咲いたそうです。予報官の言葉に「やっぱり今年も・・」との頭出しがあり専門家の判断を揺り動かすような異変が地中でも起きているのだと考えたことでした。桜は春、紫陽花は梅雨時期との固定概念も崩れるのでしょうかね。
 思わず、妻に向かって「これって、狂い咲きだよな」と乱暴な言葉を発している自分が可笑しくなってしまいお互いに苦笑した瞬間でした。地中深い部分でも夏のような地変でも起きているのでしょうか。
 ラジオでは空から宇宙ロケットの破片が日本上空には落下する危険性があるとも報じていました。空からも思いがけぬ大きな破片が落下したり、地中では異常な暑さで花まで狂い咲きをしてしまうような時代になったのかな(笑)。
 世界中での「政治の異変」も気になりませんか?人間様も変わってしまっても変じゃないのかな?

2011/10/21

What's this ? Please guess .

 ~中身は「柿」でした~
 とうとう67歳になってしまいました。
 長兄も次兄も50歳代で他界していますので、その年代になった頃は独りで悩んだものでした(笑)。小生をご存じであればあるほど信じられない症状だろうと想像できます。還暦を迎え現職を退いた頃には旧友が連続して他界しました。その頃は第二波の苦悩でした。そうこうしている内に、悩む暇もない程の多忙さに襲われました。それは認知症を発症した義母の介護から始まったのです。待機時間が数年後と言う特別養護老人ホームの現状も思考回路がパニックに陥いる原因でした。自分のことなど考える余地すらなかったような日々でした。退職を待ってくれていたかのような発症にその介護は昼も夜も続き、わが親なるがゆえに気苦労する妻の健康まで気になる日々でもありました。
 義母が他界したことは健常な義父に知らせることも躊躇いましたが、3か月後に妻の後を追って他界した義父は知っていたそうです。孫である長男が明かしてくれました。8月に義母、11月に義父の葬儀を済ませてあの喧騒は一段落しました。義父母は同年齢で共に92歳での他界でしたので大往生とも言える最期でした。妻の惜別の思いは想像するより小さいモノであったようです。
 義父の死後、長男がここ土浦に墓地を求め義父母も安らかに眠っているでしょう。三回忌も終えホッとした頃から長寿系の妻の親族の高齢者の訃報が届き始めています。10月の前半はその渦中にありました。
 昨日は東京で出版社の要務があり懇親会を終えての遅い時間の帰宅になる予定でした。孫たちが楽しみにしている(お祖父ちゃんの誕生日に食べるケーキ)夕食会は延期されたようです。創立記念日でお休みの小学生の孫たちが、保育園に行く弟を連れて離れの爺婆宅にこの袋を下げてやってきたのです。中身は見えませんが直ぐにわかりました。それはお祖父ちゃんの大好物であると直感したからなのです。その通りでした。まだ今朝も食べていません。じっくり賞味したいと思っています。
 孫が一緒にビールを飲みたいとのことです。孫は現在10歳です。あと10年生きないとその夢の実現が出来ないので、ご迷惑でしょうが心密かに「10年カレンダー」でも購入しようかと長生きを企んでおります(笑)。
 今日は午後から孫たちの学校で「フリー授業参観」があるそうです。二人の孫たちから「是非、来てね」と時間の指定まで貰っているので老妻と「歩禅」を兼ねて授業参観に行ってまいります。

自己紹介

自分の写真
1944年熊本県八代市生まれ。1968年から神奈川県内の高校、中学校の英語教員として勤務。1988年より神奈川県茅ヶ崎市で指導主事、教育研究所長、中学校教頭、指導課長、小学校校長、指導担当参事を務める。1996年8月ちがさき教育実践ゼミナール『響の会』(現・教育実践『響の会』))を開設し、教員の自主研修会として活動を主宰。 2001年に新設開校の茅ヶ崎市立緑が浜小学校・初代校長着任。 2004年3月退職後は「教育実践・響の会」会長として全国で講演活動中。『響の会』は茅ヶ崎市・浜松市・広島市・東京都立川市に開設。2006年9月より2011年8月まで、日本公文教育研究会子育て支援センター顧問として全国で指導助言に務める。著書に 『あせらない あわてない あきらめない』(教育出版)、『人は人によりて人になる』(MOKU出版)、『小学校英語活動教本JUNIOR COLUMBUS』(光村図書出版)がある。その他月刊誌等の執筆原稿や共同執筆書も多数あり。近刊は、2012年10月発行予定(『校長先生が困ったとき開く本』教育開発研究所)。

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